背く親

昨日の夕方、子どもといっしょに公園に行くと、ちょうどそこで4~7才くらいの姉妹が交代で縄跳びをして遊んでいた。はじめは夢中でやっていたけれど、そのうちにお姉ちゃんが「あや跳び」をした。するとすかさずお母さんが「すごいすごい!それはアヤトビって言うんだよ」と教えてあげた。

褒められたお姉ちゃんは今度は「アヤトビ」を成功させるためにやり始めた。ただ夢中でやっていた縄跳びに成功と失敗が生じ、そこに評価が加わった。

なかなかできなくて、イライラする。もう一回アヤトビをすると、お母さんは、「ちがうよ、それは交差跳び」、そこへお父さんまで加わって「今のはあや跳びにも交差跳びにもなっていない」と次々厳しい評価と注文を付け始めた。

そうこうする間に存在を忘れられそうになった妹が、「モウカワッテヨ!」と自分を主張しはじめた。当然である。お姉ちゃんはしぶしぶ交代する。「じゃあ5回ね!」と先に自分の自由を制限されたお姉ちゃんは、さっきまで自由に交代しながら一緒に遊んでいた妹に急に注文を付け始めた。

やっと通った要求に制限を付けられた妹は「ゴカイヤダ!カゾエナイデ!」と自分の自由を主張する。お父さんは「お姉ちゃんが貸してくれたんだから交代で遊びなさい、自分がやられたらイヤでしょ」と正しきを指導した。

ついさっきまで楽しかった同じ縄跳びが途端に詰まらくなった。嫌になり一人で遊具に行ってしまった。人間の要求は川水の流れと同じである。堰き止められれば、孤独になるとわかっても隙間を見つけて流れていく。

お姉ちゃんはアヤトビを再開するも、もう笑顔はない。それをお母さんは意に返すことなく、相変わらず「今のはちがうよ」とやっている。

お姉ちゃん「ちがうちがう、そういうこと言ってんじゃないの!」
お母さん「えっ私が教えてあげてんだけど」とついにはケンカが始まった。

読めばわかる通り、子どもの自発性と楽しみを奪ったのは親である。この場合は相手の求めない知識と正確さを押し売りしたためだ。何故そうまでして「アヤトビ」を正確に教えようとしたのか、私にはそれがわからない。

おそらくだが、この流れはここで終わらない。「正しさ」によって自分の自由と自発性を制限されたお姉ちゃんが妹にもそれをしたように、やがては学校の友達にも何かあるごとに「それはちがうよ、こう」とやり始めるかもしれない。

人間の表面の動きだけしか見ない人にこんな話をしても無駄だろう。せいぜい「親の親切に子どもが背いた」と思うかもしれないが、子どもの自然のこころに先に背いたのは親である。その根本には古くなったことによる感受性の鈍りと子どもに対する無理解がある。それが仲良く遊んでいた姉妹の中まで壊してしまった。

妹は姉が憎いと思ったかもしれないが、その背後に親の鈍感があるとは夢にも思わないだろう。その結果、本件でもっとも孤独を味わったのも妹である。しかしながら、考えてみるとこういうことは世の中にいくらでもあることではないか。

お互いがお互いの正義と自由をつつき合って息苦しい社会を作っていく土壌は、こんなところにもあるのではないかと思った。慎まなければならない。

いじめもまた然り。弱者を守るべしという頭の教育も結構だが、指導者層の視野狭窄と感受性の鈍りを見逃して、お仕着せの教育が奏功するとは思えない。子どものうちからこころの自然と感受性を守り育てていく体育の必要性ここにありと、改めて信を強くした次第である。