「身体を整える」というのはある意味で死ぬ準備なのかもしれない。
よく考えればどんな人間の活動も死ぬ準備だと言えなくはないが、身体を整えるというのはそういう点でものすごくダイレクトな行為だと思う。
準備といっても具体的にどういうことかというと、「やり残し」のないように生きていく、ということだ。
大別すると、20代の整体指導というのはいわゆる「夢」に向かっていく動きである。若さに伴う理想の実現に向けて、情熱や勢いを充填するための行為とも言える。
少し進んで40代になると、それは内省。半生の振り返りによって、自分の中にありながら生きてこられなかった心に光をあて、自身の人格と人生において見落としてきた部分を補償しようとするケースが多くなってくる。
60代以降はというと、これは本当の意味での「終活」ではないかと思えるのだ。
もちろん本人としてその自覚は無い場合も多いが、それまで遮二無二生きてきたような人が「結局〈自分〉というものは何であったのか?」ということを真剣に考える契機となりうるのである。
事の発端としては更年期障害とか腰痛であるとか、不眠などの形であらわれるけれども、そういう病症をすべて無意識の訴えとして手繰っていくと、どうしてもその人の〈たましい〉の要求が影のように見え隠れしてくるのだ。
言うなれば身体を整えるということは、自己探求への道に他ならない。
そして自己探求の究極は、人格の完成としての死である。
この死を歪めないための、〈たましい〉の導き手として野口整体というものが今日まで現存してきたと言っていいだろう。
日本は長寿大国であることも手伝ってか、生きることばかりにこだわって、時々死ぬことを忘れているのではないかと思う人がちらほらいる。
こういう状態が初老とか高齢者と言われる世代の人にまで及んでいるのは、ある面喜ばしいと言えなくもないが、やっぱり少し憂うべきことなのかなと思う。
ときに終活といったって、別にどこかに相談役がいるというわけではなく、身体を媒体とした自己との対話である。
そう言えば野口整体の標語に「一日生きたということは、一日死んだということである」というのがあるのを思い出す。
科学的医療においても最近になってようやく「終末医療」という形で死を技術の射程内に捉えたのである。そこに至るまでは患者に対してどのような処置が正しいのかという点で全く一貫性がなく、朝令暮改を繰り返す歴史であったのだ。
これに比し整体は最初から死を見つめて来たのである。全てが死から逆算して生を活かすための技術であったからこそ、そこにブレがないのだ。
生命という絶対秩序に則した思想であり技術であり続けるからこそ、〈いのち〉を本来のあるべき姿に安住させ、死を整えることができるのである。
我田引水、あるいは井の中の蛙と言われるかも知れないが、個人的にはこれが最良の終活だと思っている。