3年前にせい氣院を立ち上げた時っていうのは・・・野口整体を広めて、いろんな人に知ってもらっていい世の中を作ろう、そのために貢献するぞ。そういう気持ちから出発したんですよ。それがね、
今頃になって・・
「…果たして<良い世の中>って一体何だろうか?」、最近はそんなことを考える時間が格段に増した。
今までの日本(20年位前まで)なら・・とにかく、利便性と効率化だけを追求してきたわけで、社会全体に「迷い」がなかった。とにかく何も言わずに言われたことを、さっさっ!さっさっ!やる。それが教育原理にまで及んで、何ーんにも考えないで言われたことをパッパとやる人間を「大量に造る」ことに終始してきたわけだ。
これが「教育」だっ・・・つって。
それで、こーゆー世の中になった。
つまりね、これが善いことだ、良い世の中を作るためだと思ってやってきたことが、今のような世の中を生んできたわけですよね。
それから派生して、戦後から70年に渡って<大量生産・大量消費>の流れがあったわけだけど、まぁ、見ての通り崩壊しているわけですよね。気が付いていないだけで。
松下幸之助さんの水道哲学が喝采を浴びたのは80年前の話で、今はもう巷に散乱する安価なものには言いようのない嫌気がさしてる。今は多くの人がも高価でも、稀少でも、何でもいいから、「本物」を求めているんだよね。
で・・・
整体に賛同してくれる方々は「整体の考え方はいいですね」って言ってくださいますが、これに対して近頃はうれしい反面、「はたして本当にそうなのかなぁ・・?」と自分の足元を注意深く観るようになっているわけです。
今のところは現代医療の健康観とか生命観に対して野口整体は光を放っているわけです。だからこれを、みんなが納得して受け入れてしまったら、今度はその価値が薄らいでいく可能性は高い。そうなったら、やがては世の中からだんだん消えてしまうんじゃなかろうか。それでいいのかもしれないけど。
世間のものは大体においてそうだが、100人のうち90人が「いいねいいね~」というのは大した価値のない、フツーものが多い。イイモノのの大半はどうでもいいものだ。
飲食店でも最初の一店舗目はオーナーの個性や心の温度が店中に充満しているから、5年以上つぶれない店ならそれは大抵いい店だ。これがチェーン展開なんかして「管理運営」に追われているうちに気がつけば個性がなくなり、クオリティーまでも「普通」になってしまったりするんだよね。
それで「野口整体もマイノリティだからいいのかもしれない」・・・という気もするのだ。つとめて排他的になるつもりもないんだけど、質をを一定に保つには広げることよりも、高めるとか深めることの方が大事かもしれない。
医療の分野も、例えば女の人が子供を産むんでも、どこでもここでもやっているような病院出産よりも、都心からはるばる、「いいお産」をするために上質な環境とか人を求めたりするわけだ。世の中の価値観はこういうステージに来ているんだよね。
江戸時代だったら多くの人が「自分の身体に起きたことは99.9%自分の責任」として、現代の人たちよりも高いレベルで自分の体や人生にたいして責任のある生き方をしていたはずだ。
そういう世の中に、西洋医学のさきがけとして蘭学が入ってきた。
それまで治らない病気も治った。しかも、これがはるばる海を越えてやってきたのだから、きっと相当すごいものに違いない、そういう舶来ものに目がくらんだことから始まり、時間とともに「権威」を備えていったんだと思う。
そもそも何がとうなっているか「判らない」、命の本質を確実に捉える手段としては、合理性、再現性という切り口は当時の人の目には素晴らしいものに映ったと思う。でもね、こういう「安易な近道」は知らないうちに人間をナマクラにするし、魂を堕落させる。
野口整体も思想から技術だけが分離されて、多くの人に「便利」に使われははじめたら要注意だな、とも思う。真の光は決して自らは輝かないのだ。
一躍脚光を浴びた、「痩せるための骨盤体操」がいい例だけど、こういう卑近な欲望を刺激して底辺が拡大したところで、奨励的にはそんなもの毛ほどの価値もない。
だから、これからは「不特定多数に広める」よりも、「必要な人に純度の高いものを提供する」こういう角度から仕事に取り組んでいく・・傾向としてはますますそうなりそう。
だからって明日からいきなり何か変わるわけではないけどね。自分の「価値」で生きることを選んだ以上は妥協する必要は全くないし、ゆずれないところでもあるな。