火鉢解禁。
炭の温かさってなんでこんなにってくらい癒される。
こんにちは、野口整体の朝比奈です。
また・・おとといかな、「強くなる」とかいうようなことを書いたのだけど、これも定義付けがまったくあいまいで、指導室で人と話していても聴く人によっては全くあさっての方向へ走り出すかもしれないなぁ、と思った。
「強さ」というと今は筋力トレーニングのような強烈なプラスを意識しやすいんだけど、僕が言っているのは「強い=中庸=バランス=ニュートラル」を指している。
現代の「治療」は痛かったらすぐとってあげることが「功徳」で、当然の親切のように思われてるんです。苦しいのも同じで、当人の心的状況も体の波も全く理解しようとしないで、ぱっぱと切り離そうとする。
ろくに「苦しまない」で大人になるとどうなるか。知らないわけでもなかろうに・・。
だから、苦労は買ってでもしようとは思わないけど、苦しみを取ってしまおうという気もない。
「ふつー」にしてればいいと思う。
ニュアンス的には1秒でも早く「マイナス」から「ゼロ」へ。そして「ゼロ」から「プラス」へ、これこそが人類の進歩であり善である、という固定の通念があるみたいだが。
人類創世以来プラスだけがまかり通る世の中はどこにもないのだ。負とかマイナスとか闇の部分だけを切り離して、光とかプラスだけを味わおうとする。そういう考え方自体に耐えざる苦痛の元があるんだけどネ・・。
数字によって統制された現代教育の弊害なんだと思うけど、「野口整体」というものにも何か大きなプラスを求めて多くの人が近寄って来る。
だけど生命が求めるべき原点、スタンスは「無」とか「ゼロ」なのだ。
人間は「気」の集中によって生命を授かり、時限つきの花火のようにその「気」は分散していく。気が散ることは、すなわち朽ちていくことだ。
これは何度も何度も言い続けないと、うっかりするとすぐ「治してください」「治してあげますよ」になる。
そこがもう違う。
整体は「待つ」とか「祈る」という、生命に対する敬虔な態度を堅持する。
「待つ」という行為を、峻厳な「技」にまで高めたのが愉気だ。
だから「治さない」んだ、っていうんだけど・・・、
なかなか理解してもらえない。
ま、気長にがんばる。