むかし社会科で「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉を聞かされたが、地頭の方はともかく泣く子にも勝てぬというのは今からするとおかしいように思う。
子どもは大人よりもずっと心が開かれているのだから、丁寧に応対すれば泣く子の気持ちも理解できるし、ささくれだった心をなだめることだってできる。自分で子どもを持った経験からこれは確信している。
なぜこんな話かというと、最近外出するとどうにも気になる場面に出くわすからだ。
町に出るとベビーカーに乗せられた子どもが泣いている。それはしょうがないけれども、母親は泣いている子どもを放ったまま黙ってクルマを押している。別段急いでいる様子もない。
あるいは父親が娘を電動自転車に乗せている。前乗せのシートでやはり泣いているのだが、信号待ちで何か言ってあげるのかと思うと、こちらも何かラジオの雑談でも聞き流しているかのようにまったくの無視である。
こういう時に何故ひとこと「どうしたの?」といってあやしてあげないのだろう、と思う。いや親と言えど人間である。虫のいどころ次第で子どもの泣き声が腹立たしく聞こえることもある。たまたまそういう場面に出くわしただけかもしれないが、それにしてもむかしはあまり見ない光景だったように思う。そのむかしの記憶もだいぶおぼろげなのだが…。
三つ子の魂云々…というのももはや死語かも知れない。しかし整体の潜在意識教育という観点からいえば(そんなもの持ち出さなくても)上のような行為は子どもの発育を歪める。
子どもの頃なんてどうせ覚えていないのだから、もう少し大きくなったら…、などと思っているとしたら10年後20年後に手痛いしっぺ返しを食うことになるだろう。
まあその頃になるともう自分が子どもに何をしたかなんて覚えていないのだろうから、うちの子が急に反抗し出した、他所で事件を起こした、暴力を振るった、という認識になるのかもしれない。胎教をはじめ自分のやってきた育児と、現在の子どもの行為の因果性など想像もつかないのではないだろうか。
ともかくこういう子育てが子々孫々繰り返されれば人間の世の中は殺伐としたものにならざるを得ない。世界の元首があつまって平和な世の中、慈愛に満ちた世界を作りましょうと言ったところで、根本的に人が人を信じていないのだから武装解除も核の廃絶も為し得ない。
とはいえそもそも競争と闘争は生き物の常なのだから、戦争や紛争をどうの…ということ自体がナンセンスなのかもしれない。
それはともかく生き物が自分の種子を十全に育てられなくなったとしたら、それはその種(しゅ)全体が縮小の方向にあるのではなかろうか。
これも人間が増え過ぎたことによる随伴現象だと思えばマクロにおいては納得できないこともない。とはいえミクロの視点からいえばそういう風に育てられた子はゆくゆくは本人のみならず周囲をも不幸にしかねない。
ヒトラーの例を出すまでもないだろうが、子どもの頃に与えられた不遇の記憶は時間を経て変質し思わぬ形で噴出する。
「少しくらいは放っておく方が子供は早く自立するし、タクマシク育つ」などという乱暴な意見もいまだに耳にするが、これは保護者・養育者の怠慢を是認するための詭弁にしか聞こえない。
確かに放っておかれた子どもは早く自立する(ここでの自立とは自分で身の回りのことができる、という程度の意味である)。栄養を欠いた子は早く歯が生え、早く歩きはじめる。泣いても要求を受け入れてもらえない子は言葉を早く覚える。
野性動物として育てるなら成長は早い方がいいかもしれないが、人間としてよく生きる道に導こうと思えば先ず感情を豊かに分化させ、細やかな情緒を育まねばならない。そのためには言葉を話すのも、人見知りをするのも遅いほどよい。そうなると当然独立期も遅くなるが、その方が心の清らかな時期も長くなり素直に伸びるのである。
そのため保護者には子どもが言葉を話さなくとも、要求を察知して叶えてやれるだけの感性が要求される。頭だけが賢しらに発達し、覚え込んだ「育児法」を押し付けるようなガサツな育児を繰り返していては、子育てに欠かせない野性的な勘は退縮する一方である。
こういう親によって全く要求を聞いてもらえなかった場合は自分の感情がわからない大人に育つ。感情が分からないと大人しいかというとその逆で、衝動的に感情に支配される大脳的弛緩状態が常となる。
また中途半端に理解されたり、されなかったりといった場合は早くから賢しらな言葉を無理解に駆使するようになる。俗にいう「ませる」というのはこれである。
早く育った子はゆったり育った子に対して何かと優位になることが多い。そのために先に獲得した知恵で意地悪をしたりいじめたり、ということも出てくる。
すべてが悪い方向に行く、というような言い方はちょっと主観に偏りすぎかもしれない。しかし客観性・普遍性ということを当てにしていては間に合わないところまで、相当に大衆心理が歪んでいるように思えてならない。
不遇な環境で育ったがために立派になった人もないかもしれないが、このようなケースでもどこかできちっと愛情を受けていなければ十全な発育は望めないと私は思う。感情が豊かにはたらき、心にゆとりのあるやさしい子に育てようと思えば心を細やかに受け取ってまめやかに観ていくよりほかない。
忙しくてとてもそんなことはやっていられない、という人は「児童は、人として尊ばれる…」からはじまる児童憲章を一度読まれるとよいと思う。
「なにもそこまでやらなくても死にはしない」という言葉も嫌いである。死なない程度の育児でよいなら今の日本なら誰でもできる。その点子どもは元来丈夫なのである。しかし一人の子どもの内にこころがあり、そこに一つの宇宙があると思えばその世界を憎悪や窮乏、絶望に染めてはならない。
よってすべての母親、父親は一つないし二つ以上の世界の創造主の資格を持つ。自分が神さまと同じ立場にあると思えば、泣く子を前にしたときに自ずと慎みと敬虔さを具えた態度になるのではないだろうか。