母の一周忌で実家に家族が集まった時に人生ゲームをやった。懐かし過ぎる。
子どものころ遊んでいたこのボードゲームの王様も2021年8月現在で7代目になっているではないか。
職業選択の中にフリーターがあったり、進むのにつれて就職(転職)のマスがあったりして、なかなか時代性を反映していて面白い。
ゴールの一歩手前で火星に行くというマスがあるのは笑えるような笑えないようなギャグだけれども、なんだかんだよくできているなあと思った。
普段はipadでゲームアプリばかりやっている6歳の息子も、この日は一緒にこの前衛的なアナログゲームを十二分に楽しんだのだった。
しかしまあ勝敗の要素がゴール時の総資産という点は昭和の高度経済成長期の名残りを感じさせる。
平成の後期辺りからだろうか、お金は幸福の必要条件であっても十分条件ではなくなった。
先月の七夕の時に見た小学生の願い事も「大金持ちになりたい」なんて書いているのは低学年までで、それより年齢があがると家族の幸せや世の中の平和、安寧を願っているものが多かった。
衣食足りて礼節を知るという言葉が示すように、経済的に豊かになったおかげで求めるものも唯物主義から遊離してきているようだ。
だからといって何を求めたらいいのか、というとそれはそれで戸惑う。丁寧に調べたわけではないが、現代なら「何も求めていない」「今が一番大事(今が楽しければいい)」という人も存外いるではないか。
カウンセリングをしていると「中年の危機」の相談に見える方の内容は「何もする気がしない」あるいは「何をしたらいいのかわからない」という悩みに集約されることが多い。
やった人でないとわからないけども、これはなかなかきつい。
仕事はするものだ、と教えられて育ってきたものがふと立ち止まって自分の職業的存在価値を問い直してみると価値らしいものが見当たらない、意義を感じられないということがある日突然やってくる。
一所懸命に足掻いても「その時」が来るまではどうにもならないのである。
幸いにして人生ゲームは順番さえ待っていればルーレットを廻してコマを進められる。そして行った先で何があるかはその時が来るまでわからない。
実のところ本物の人生もこれに近い。生きている限り常に予想をはるかに超えた現実に日々出会っていく。
こういうものを仏教では「縁」とか「因縁」とかいったりしている。この偶然性を十分に味わう力があれば人生がつまらないなんて言っている暇はないのだが、なんだろう、そういう人生を味わう味覚が一時的に麻痺することがあるのだろうか。
しかしまあ、待っていればどこかに流れ着き、流れ着いた先が今日の〔今〕なのである。
人生ゲームをやりながら、人生というゲームのコマである今の自分をもう一人の自分が見ていた、みたいな話になった。