昨年の梅雨のこと、軒先にあるライラックの切り株に見なれぬ光景を発見。粘菌である。
粘菌は寒暑風湿に応じて、文字通り千変万化する原始的な生命体である。植物とも動物とも分類しきれず、キノコのような形から胞子となって舞い飛んだかと思えば、アメーバのようにもなって微生物を捕食することもある。
おそらく朽ちかけたライラックの切り株を見つけて(一体どうやって⁉)飛来してきたものと思われる。
うまくしたもので隣で元気に葉をつけた株には見向きもしない。そして数日の後には雨季の終焉を予期したかのように忽然と姿を消した。
この一連の動きに、ただ無心に活動する生命の秩序を感じた。
二宮尊徳の句に次のようなものがある。
音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかへしつつ
これは里山で暮らしながら感得した、自然に対する畏敬の念なのだと私は思う。
その自然はいまも我々の裡に宿っている。だからこそ息も脈も環境に応じて否応なしに変化する。その自然を見失い、ただ生きるということに複雑に悩むのが人間である。
もはやこれ以上の大脳進化の必要はないだろう。むしろ大脳を休め、原始の感覚を呼び覚ますことに、養生の秘訣はあると思うのだ。