自分が小学生の頃はほぼ皆無だったが、現代は不登校児童の話を聞くことが増えた。
せい氣院には学校の先生もお見えになるので、少しだけその辺りの情報を漏れ聞くことができるけれども、言ってみれば一つの教室にそういう児童が一人以上いるのが当然という風潮である。
職業柄、興味のある分野でもあるし日々いろいろな方とお会いするので、何故そのような世相になっているのか自分なりに思いあたるフシもある。
実際、年に1、2回くらいはうちでも不登校にまつわるご相談をいただくこともあるけれども、何かそういうものを整体で治そうとか、どうにか学校に行くようにとか、そういう角度で取り組むことはまずない。
ただただ「その人」とそれを取り巻く環境の理解を深めようとするだけである。
野口整体では病気経過によって身心が調和を取り戻す、と捉えている。
一般医療においては病気を治そうとするけれども、整体法では「病気自体がすでに治るはたらきである」という視点でみる。
「不登校」という現象をこれに照らして考えると、「学校に行かない」ということでその人の内側で何か非常に重要な治癒反応が起きている、という見方ができるのである。
またそれ以前に、7歳から14歳くらいまでの子供が「学校に行きたくない」と訴えること自体が私には非常に純粋な感受性であり、自然な動きであると思えるのだ。
私からすれば多感な子供が「僕は何でこんなところに毎日毎日来なければならないのか‥?」と感じ、悩むのはむしろ「健全」だと思う。
逆に自分の内面にそういう疑問が沸いているのに、「学校はみんな行くものだから‥」と健気に社会規範に従うばかりでいるとしたら、むしろそちらの方が将来的に少し心配だ。
だとしたら学校に行かなくたって放っておけばいいのかというと無論そうではなくて、やはり周囲の大人は一定の関心を寄せて見守るべきなのだが。
いま世間に溢れている不登校の中で、私が直接的に触れた事例というのは非常に僅かなものではあるけれども、そういう場合どうも見ていると周囲の人たちが遠巻きになって指を咥えて見ているような印象を持つ。
一応セオリーのような対応策もあるらしく、例えば「学校に行け(来い)」と言ってはいけないというのもその一つのようだ。
しかし、ただただ「セオリー」に従がっていれば職業的義務を全うしていると思っている教育者もおられるようで、その点に関しては残念である。
もちろんそれはそれで間違いではないかもしれないが、私が見ていて思うのは自分自身の心の全体性でもって相手にピタッとぶつかっていける大人が少なくなったように見受けられる。
「ボクはこうなんだよ!」という言葉になる前の子供の胸の内を全身で受け止められるような、そういう「身体性」が発達していない。身体を観る職業的立場からこんな風に思えるのだ。
そいう意味で漠とした「さみしさ」を抱える児童は現代社会には一定にいるだろうし、一方で「ぶつかりかた」のわからない大人も苦しい面がある。
そういう問題に対して「整体指導」で何ができるのか、と考えると決して簡単なものではないけれど、いろいろな角度から貢献はできるのではないかと思ってはいる。
例えば野口整体には「愉気」という手当ての技術があるが、これなども皮膚感覚を通して対話を超えた相互理解の扉を開くためには非常に役に立つ。
やはり教育現場(に限らずだが)において「身体」ということがあまりに閑却されたり、忘れ去れていることが問題の根本のように思える。
ではその身体感覚をいかにして取り戻すかという視線の先はブラックボックスなのだが、自分の持ち場としてはまずお会いする一人ひとりの方と地道に向き合っていくのが正道かと思う。
回りくどいようだけれども、一人の心がみたされるということで得られる社会的な有益性は高い。
その心の豊かな一人を通じて、そのまた周囲の人たちが心の充実感を味わうことができるからである。
不登校というのは言わば心という広大な海の表面に現れた、一つの現象に過ぎない。その現象の下を流れる心の潮流を感じることができる高度な身体性を養うことが、解決の糸口であると私は思う。