養生

久しぶりに河合隼雄さんの『無意識の構造』をめくっていたら「自己実現(個性化)」における「時」の重要性について綴られていた。昨日の記事で時のことを書いたのは、記憶の片隅にあったものが出てきたようである。

何であれ、人生には誰にでも「ここぞ!」という「時」があるものだ。その時が来なければいくら努力を惜しまず、気張っても「何も変わらない」という非常に歯がゆい思いをする時期がある。

かといって時を逸しておこなう「努力的」な行為が全て無駄かというとそんなことはない。

昔から「念ずれば花開く」などというように、われわれが「人生」を考える際にはとかく花がついたとか実を結んだというような瞬間だけにフォーカスしやすい。

しかし何ごとも「プロセス」あるいは「仕込み」というものが大事で、始めに発芽して根を張り、茎を太くし幹になり、といったいわゆる「根幹」を形成するためにも相応の「時」を要するものである。

とかく心身の異常からの回復や人格の成長を願う折には、少しでも有効な治療を施して一日でも早い好転を期するものだが、人間が少々あがいてみたところでどうにもならないものが「自然」である。

その自然の力を我がものとするために心得るべきことは、「時を待つこと」そして「波に乗ること」というこの二点に尽きる。

つまり何か大きなものに「任せる」ということが根本の考え方だが、いざという時にも心を落ち着けてじっとしているためには日ごろから息を深く保たねばならない。

身体を使った修養の必要を説くのはこのためで、体を整えることで呼吸は自ずから深くなる。結果、自身の内界・外界を区別なく「自然との一体感」を味わうことになるのだ。

極論をいえば、自然の中に流れる時と自身のバイオリズムをシンクロさせることが養生の真髄といえる。

そのための方法としてせい氣院では坐禅と活元運動を行っているけれども、本質的には行なう人にとって「思考が一瞬でも休まる行為」なら何でもいいのだ。

大自然の中を流れる、早くも遅くもない「中庸の時」を自得するためには、意識を閉じて無意識がその生活に現れるようにすることである。

私の中には私の知られざる〈わたし〉がいることを自覚して、時々この〈わたし〉に深く頭を垂れるべきなのだ。

このとき身体は自然の秩序を現す媒体になる。時の流れを疑い、乱す人は自分で自分の〈いのち〉を乱してしまう。時を敬い、その流れにそっと自分を浮かべることができれば養生は自然と完成する。