意識の限界性

しばらくブログの毎日更新を自分に課してみたところ「意識」の限界性というものがなんとなくわかってきた。

巷では「潜在意識」が流行りのような気がするのだが、日本語では意識できない心の領域のことを「無意識」とか「潜在意識」と呼んでいる。

その無意識が「開かれた」状態になることでさまざまな恩恵にあずかれる、というふれ込みのもと結構な量の書籍やセミナーが出回っているようである。

アニメの一休さんで有名な「とんち(頓智)」というのも、この無意識領域からヒョックリ現れるヒラメキのようなものである。

今となっては古い話だが、禅僧のたまごである一休さんは何か難問に出くわすと「ポクポク‥チーン」という効果音にのって坐禅を組む。

この「坐」によって意識が一時的に休止して、それまで外に向かっていた心のエネルギーは逆行(退行)をはじめ無意識の活動領域に流れ込むのである。

その結果、活性化した無意識界から自分でも「思いもよらない」答えがコロッと生じてくるのだ。

いわば瞑想・黙想・禅といわれるような精神活動は〈私〉の意識的責任下を離れた、心の無軌道な活動である。

これに比して、一般社会で好まれる「努力」というはたらきは極めて「意識的」な行為なのだ。

それは言いかえると「私くさい」とでもいおうか、いわゆる「我」と言われるような働きによって〈私〉を含めた「世界」に対して挑戦していく動きといえる。

見ていると、一般にこのような努力的な動きというのは遅かれ早かれ「行き詰まり」が生じやすいようである。

広大な心の領域内の「意識」という狭い枠組みの中だけでがんばっているわけだから、それは必然である。

一般に「努力」が功を奏するのは、その行為が同じ様に狭い枠組みの中に限られた場合のみであろう。

例えば学校の試験や会社の業績というような「レール」と「ゴール」が極めて狭く固定的な枠組内においては、努力の総量に応じた結果につながるわけである。

しかし実社会や実人生における生活の場では常にさまざまな事象が複雑に絡み合って存在しているために、例えば「東へ行こう」と努力したからといって必ずしも直線的に結果が出るとは限らない。

つまりはそれだけ意識で捉えられる「現実」というのは非常に狭く、また個人的主観によって一定の偏りを有している場合が多いのである。

そのような時に意識の活動水準をぐーっと下げて無意識のはたらきを活性化させることができれば、膠着しかかった現実認識に新たな視点が与えられ、意識と世界に新鮮な風が吹き込んでくるのである。

これは「瞑想」で得られる効用の一つである。

経験上、うつ状態などで困って来院される方の多くはまじめで努力家タイプの人が多い。この様な方々は自分では自覚はないけれども「意識(≒情報量×思考力)」を鍛えて、人生の難局を乗り越えてきた人たちである。

しかしこのような態度では、思考の枠組みだけで乗り越えられない「壁」に直面した時に意識が過剰亢進して疲れ果ててしまうのである。

よって思考力に長けた人ほど意識の休め方を訓練する必要があると言える。

身体というものは(もちろん脳も含めて)、「使い方」と「休め方」の両方をバランスよく鍛えていく必要があるのだ。

現代人は義務教育の過程からすでに意識の訓練に偏りがちなので、成人に至る過程のどこかで無意識を活性化させる時間を「意識的」に設けるべきである。

これに気づくためのプロセスとして、一度は考えに考えた結果疲れてヘトヘトなることも有効かもしれない。

非常に大まかにいってしまえば、意識は有限、無意識は無限である。

誤解が生じるといけないので敢えて書くが、有限の枠組みの中で論理的に考える力が必要なのは当然である。一方でそれと同等かそれ以上に、枠を解き放って無制限に心のエネルギーを活性化させる訓練にも注力したい。

いってみれば「行き詰まり」というのは意識が生み出す幻覚なのである。これを飲み込み、新たな世界観を構築するための無意識を活用するすべを学ぶことが自身の世界をより豊かにする。

これは人間に失われやすい「野生」を善用する態度でもあるのだ。無意識に対する信頼を養うことは、野口整体とユング心理学に共通する要諦でもある。

くり返すが「限界」とは意識が生み出す幻なのだ。意識を休め、無意識の活動レベルを高めれば、目の前の壁は消えさり四方八方に広がる道が現れる。

自身に内在する光に目覚めることだけが、自分を根底から救う唯一の道なのである。