心のゆらぎと安定

せい氣院の整体では仕上げに必ず正座をしていただく。

ちなみに古伝の整体法ではベッドを使用しないため、受ける方は操法布団にうつ伏せ・あお向け・正座のいずれかになる。

とにかく3、4年前までは私も師匠に教えられたとおり、坐骨が安定させて腰椎(背骨の中の腰部分)がしっかりと伸びること「だけ」を目標に一回の操法を組み上げていた。

ところが最近になり「果たして本当にこれでいいのか?」と考えるようになってきた。

確かに腰椎が伸びれば意識は静まる。

それはそれで結構なんだけれども、そのとき思考も停止して精神は非常に「平安」の状態になる。

「それも結構じゃないか」と言えなくもないが、本来は「悩む」ことでその人は何かが変わろうとしているわけだから、もう少し悩みを深くして、葛藤の純度や精度を高めることも必要なのではないか、と考えるようになったのである。

ところがカリスマ性の強い指導者やメンターというのは、しばしば相手の中にあるユレやグラつきを全て奪ってしまう。

その結果クライエントは「その人」に会ったときだけものすごく安定する、という「問題」が出てくるのだ。

そして時折りこれが一種の中毒症状になって、「治癒」と「自立」を目的とした臨床の場がかえって不健全な癒着状態に陥ってしまうケースが巷には散見される。

これはあくまで私見だが、高額のスピリチュアル・カウンセリングやスピリチュアル・ヒーリングの世界には、このようなモデルで関係性やコミュニティが成立しているものが多い気がしている(もちろん本当に霊的な感性を有効利用して人々を導いていく先生もおられるが‥)。

本来「自分のこと」というのは、必要に応じて援助者がいたとしても、最後のところは自分で完成させなければならないのだ。

たとえば心理学者のユングは師のフロイトのもとを去ったのちに直面した自身の精神的危機を乗り越えるために、ヨーガの瞑想を行なったとされている。

ただし東洋宗教の場合は瞑想によって一切の妄想雑念からの解放(悟り体験)を願うが、ユングはこのような態度に疑問を持ち続けたのである。

何故かといえば、本来心が人格の全体性に向かって葛藤しつづけることが、治癒と成長に欠かせない生命のダイナミズムである。

だからこそ心が極度に静止した状態が長い間つづくことに対して、心理療法上の弊害が予想される。

もちろん瞑想行を通じてすばらしい人格を築き上げていく人も世の中にはたくさんおられるわけだから、ここで事の正否まで明言することはむずかしい。

ただ現時点のわたしは、やはり「悩むべきとき」には心はぐらぐらに揺らぐ方向にかけている。

昔「みんな悩んで大きくなった」というCMソングがあったそうだが、大きくなるためには悩むことが必要なのだろう。

悩んで悩んで、そうしていわゆる「どん底」というところまで沈みきったときに、つんと地面を蹴ると、不思議と人間は何もしなくても浮かび上がって来るものである。

「時」こそが「癒し」なのだ。

もちろん、無意識から顕在意識の方へ急激にエネルギーが流れ込んだ結果クライエントが極度なうつ状態になっていたり、方向性を見失ってどうにもならない、というような場合には「事故」にいたるまえに適切な保護は必要かもしれない。

このあたりの按配が(時には命も関わるので‥)極めて重要だが、指導者の方に「相手の力を使う」という気構えがあれば、うっかり相手の立ち上がる力までを奪うようなことはなくなるものと思われる。

物事にはなんでも厳然とした順序やプロセスというものがあるのだ。だから今ゆれているものを「時」を無視して急に止めるということにはやはり「無理」がある。

これが生物ならやはり「こわす」方向に行くだろう。

安定に至るための「ゆらぎ」というのを如何に充実した期間にするか、が治療者の力量であり器量ではないだろうか。

コツはやはり見ている方が「呼吸を深く」保つこと、そのための鍛錬を日々行うということではないか。ひと言でいえば心の余裕だが、自分自身の中にあるゆらぎを黙って見守ることができる余裕は必要だろう。

ゆらぎを活かすということは取りも直さず自然を味方につける、ということである。まず自分自身が自然と一体になることでその功徳がやがて余人にまで及ぶのだから、シャーマニズムの原型のようでもある。

熱も下痢も身体を丈夫にするために利用するのが野口整体だが、不均衡、不安定な状態というのはいずれもそれ自体がエネルギー内包しているのだ。これを上手に使う発想をしっかりと身に付ければ、不安になることをそんなに怖がらなくてもよくなるだろう。

病気は生命の自然良能である。身体においても精神においてもそれは変わらないのである。