心のことだと体と関係が無いように考えている人は沢山いる。心理学と生理学を別箇にしているからであろう。その為に精神身体医学とか、心身一如たれとかいう意見がおこるが、始めから心身が分離している人間などは一人も無い。分離していたのは学者の頭である。体育を土台とした教育ということを教えて主張しなければならないのはこういう考えの人が多いからである。(野口晴哉『叱言以前』全生社 p.61)
現代は心と体のつながり、分離ということが取り沙汰されて久しい。昨今はない心と体が無関係だと言う人はそれほどないかもしれないが、かといって心の問題に対して身体的な導きによって処理のできる人というのはやはり稀有である。
なぜそれができないのかと考えていくと、まず治療者や指導者が自分自身の心理と生理とのつながりが希薄になっているからではないだろうか。
人間は自分の身体感覚を投影して他者を測るために、治療者がいくら心理学や生理学を頭に覚え込ませても、身体がにぶっていればそのにぶさのレベルでしか人間を理解できない。
しかし人間は大昔からお腹が空けばイライラするし、おしっこを我慢していれば落ち着かないのである。
こういうイライラとか落ち着かない感じを「治そう」と思ったら、何か食べるとか排尿することがいちばんピッタリした「治療」である。
それを何かイライラするんだったらちょっとカウンセリングをしてみましょうとか、気持ちが安定する薬を出しましょうといったなら、誰もが「妙だ」と思うはずである。
ところが精神医学の世界では、ときおりこういう妙なことが治療として行われているのが現実である。
気分は身体の生理機能に直結するのと同時に、身体が気分をリードしていることも多々ある。
つまりその実態は不即不離であり、というよりも最初から「一つである」ということだ。
だから対話でも手技でも「その人の全体を掴まえたうえで」行なえばそれは全人間的治療になる。
ところが同じ話を聴くのでも個人から切り離された「話(音声)」だけを聞いていたり、手技療法を行なうのでも関節とか筋肉、内臓だけに触れていたのでは対象者を生命の中心(裡)から動かすことはできない。
そもそもが「病気」と呼ばれるものの大半は心理と生理が乖離しかかっている状態から心身の一体感を取り戻すために起きている。
だからその病気をうまく利用して、身体の自然性を取り戻すことが治療の本義となるべきである。
そういう観点から治療行為の本質を突き詰めていくと、身体を中心に据えた教育、すなわち「体育」ということが自ずと求められるのである。
もちろん整体ばかりがすばらしいといは言えないけれども、身体の生理を度外視した教育や心理を省みない治療はやはり片手落ちではないだろうか。
もっともっとこういう「整体学的」とも言える人間理解の一般化に貢献したいと私は思う。