三年寝太郎に学ぶ非努力的な問題解決力

先日禅仏教の本を読んでいたら、日本の民話『三年寝太郎』が出てきた。そういえば題名こそ聞いたことはあるけれど、詳しいことはよく知らない。「三年寝太郎って何?」ということでいろいろ調べてみると、ユング心理学における夢分析や共時性とも関わりの深い面白い逸話のようである。

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旱魃に苦しんでいた村で3年間眠り続けた寝太郎という男がいた。仕事を何もせずただひたすら寝続けていた寝太郎に周囲の者は怒っていたが、寝太郎がある日突然起き出して、山に上って巨石を動かし、その巨石が谷に転がってぶつかり続け、ついには川をせき止め、川の水が田畑に流れ込んで村が救われる。寝太郎は3年間ただ眠り続けていたのではなく、いかにして灌漑を成し遂げ、村を旱害から救うかということを考えていたのであった。

こうして内容を知ってみると、いかにも日本的な感性を匂わせている気がする。ここでさらっと「日本的」などと言えるほど異国文化を知っているかといえばそんなことはないのだが‥まあともかく。

日本語には「果報は寝て待て」「待てば海路の日よりあり」「下手の考え休むに似たり」「笑う門には福来る」「棚からぼたモチ」などなど、うっかりすると単なる僥倖だのみともとれそうな諺が面白いほど存在する。言うまでもなく、これらに共通して言えるのは「何もしない」ということから生まれる思いがけない有益性を暗に示唆していることである。

ここでいう「何もしない」ということは、現代的には「考えない(考えすぎない)」と置き換えてもいいのではないかと思う。

最近は「瞑想」関連の本がたくさん出ているけれども、その背景には日々課される学業や仕事の重圧の前に「考えに考えた」結果フラフラになってようやく生きているような人がいかに多いか、ということがうかがい知れるだろう。

現代は小学生でもストレス性の腰痛になったり精神科で抗うつ剤を出されているのだからそれだけ状況は深刻である。また私のところに相談に見える人の中には、中学・高校から進学(高学歴)コースに乗ったことをきっかけに、徐々に、あるいは急激に心身のバランスを崩したというような方もいる。

こんな風にいわゆる学歴社会に象徴される知識偏重主義が生み出した現代的心の病の象徴が「うつ」ではないだろうか。

また、全ての人がそうではなかったかもしれないが、私が受験生だった頃は「睡眠時間を削る」というのは受験にまつわる一種のスタンダードであった。ただ後になって東大や京大に受かったような人にお会いすると、そんなに寝ないで勉強して合格したような話はあまり聞かないのだが‥。

そもそもが人間の体構造上、「寝ない」ということで得られるような成果はほとんどが近視眼的な目標に限られるだろう。なおかつ、そうした「努力」は外界における有益性を追求し過ぎた結果、個人の内的な(心の)世界や価値観に照らすと「有害な行為」であることも少なくない。

具体的いうと、仮にスポーツや学業で高い成績をあげても、もともとの本人の資質や価値観とはかけ離れた人生を生きている場合などがそれである。

また楽器演奏の世界では本当に小さな頃から取り組まなければ、その道の第一線で活躍するのはむずかしいようである。そのため「自分らしさ」もよくわかない幼年期の頃から、親の価値観に順じて半ば強制的に取り組む人も少なくない。そのせいか演奏家の方が青年・中年期あたりで心のバランスを崩して(取り戻して?)カウンセラーのもとを訪れる例もままあるようである。

概して「努力」というのは意識的に自分をコントロールして、やや強引に目標に向かわせる行為だ。しかし東洋思想においてはこれとまったく対極に位置する、「何もしない」という無為的態度を重んじる向きがある。老荘の曰く「無用の用」などにも常識的価値観を顛倒する妙が現れている。つまり何かしらの問題に直面したときに、あらゆる工夫を放擲して臨む「あるがまま」という在り方が代々珍重されてきたのである。

またこれに関連して、インド生まれの宗教的哲人クリシュナムルティによる「ものごとは努力によって解決しない」という言葉も思い浮かぶが、ここにも東洋的叡智が結晶化してよく現れていると思う。

ここで改めて三年寝太郎の物語に立ち返って考えると、毎年旱魃で苦しんでいる地域ならばそれこそ「寝る間も惜しんで」治水整備に力を入れる、というのがいわば正当な合理的努力である。もちろんそのようなことはさんざん取り組んだうえでの話だと思うが、このように「よく考えて」とる行動というのは「自我」という有限な(ともすれば卑小な)枠組みの中での思考的生産活動である。

一方寝太郎の取った行動は、合理的観点からみれば極めて非生産的な行為である。ところが結果としてそれが高い生産性のある行動として結実し、目に見える現象の世界においては「わずかな労力で村を救った」という事実がこの物語を結んでいる。このような場合、心の世界においてはむしろ「大仕事」が行われたとみるべきだろう。

うっかりしているとこの話は、パッと見「何が言いたいのか」わからない。昔話としては、わかりやすい教訓めいたものが見出しにくいのである。またいわゆる「マジメ」な人に言わせれば怠惰を助長するような間違った話ともとられかねない。

しかしよく考えてみれば、このような状況下で三年も寝転がっていることが果たして楽なものであろうか。もしかしたら寝ているくらいなら何かしら「努力でも」していた方がよほどラクではないかとも思える。「寝ている」という行動を選択した時点で既になかなかの大人物だと言えそうである。

ところで、実はこの物語を西洋のフロイト、ユング、アドラー等によって近現代に確立された深層心理学的な観点から考えてみると、なかなか興味深い内容に思える。

つまり「私」の中(こころの深層部)には私(=自我)を超えた大いなる智慧が潜在する、という考え方が両者を結ぶ共通項なのである。

念のため少しだけ心理学創世記の流れを簡単に表すと、中世以降、理性と合理的精神をあらゆる文化的発展の中心に据えた西洋において、まずフロイトが「無意識」を発見したことで西欧社会にセンセーションをもたらした。

後にその弟子筋のユングは、個人が明確に意識しずらい、心の無意識領域にこそ人生を拓くための強力な心的エネルギーが潜在していることを見出し、なおかつ自分自身がそのエネルギーの流れに順じて人生を全うすることで、範を示したのである。

この無意識の扉を開く鍵となるものが、自我意識の活動レベルを下げる「催眠」や「瞑想」、そして意識の半覚醒状態に現れる「夢」などである。因みにユングは時期を違えつつもこれらの全てにつよい関心を示し、ある程度の実修も行っていた。

この中でもとりわけ「夢」は誰もが身近に感じられるものだが、それだけに学術的には重要視されがたい向きもある。だが、その夢を湧出する「眠り」という行為は人間が意識の覚醒時には知り得ない「こころの深層部」とつながれる極めて貴重な時間なのである。

寝太郎がもし寝食を忘れて、昼夜を問わず働くことで治水が成って村が救われたというのなら、それはそれで美談には間違いないだろうがドラマ性は乏しいだろう。

そうしたいわゆる根性論は戦後以降の日本では特に好まれてきたが、往々にして挫折や悲劇性もつきものである。つまりやってもやっても、そのつど自然災害や人的障害によって道を阻まれ、下手をすれば事故などで命も落としかねない。

概して場当たり的な「努力」に目が眩んでいる時というのは、「人間の中に蔵された人智を超える存在」が死角になっている。物事には期せずして「やめたら、できた」ということはよくあるもので、このようなことは多くの方が日常生活の中ですでに経験済みのことと思われる。

そうかといって、「ただ」寝転がっていれば物事が万事解決するかといえば、そのようなことは断じてないことも周知の事実である。それだけに、このあたりの「人為」と「無為」のバランスというのがまた微妙にむずかしいものがある。

これについてユングは、知的にも文化的にも高い水準を持つ東洋の一部の国が経済的発展や自然科学の発達が遅れたのは、この無為的態度に偏り過ぎたことが原因ではないかと推察している。

このようなユングの意味深い考察から比すれば非常に稚拙ではあるが、私は最近、努力と非努力は5:5くらいの割りで執り行うのがよいのではないかと考えている。つまり一日の中に何もしない、ぼんやりとするための時間を積極的に設けるよう「努力」したらよいのではないか、というものである。

これに気がついたときは我ながら斬新な視点を確立できたとよろこんでいたのだが、古語にある「人事を尽くして天命を待つ」というのはまさにこのことを言っているのではないかとすぐに気がついた。

この様にこころのことを勉強していくほどに、古人の知恵には感嘆させられることが多いものである。とりわけ東洋の中でもいち早く西洋文明に感応し近代化を成し遂げた日本において、三年寝太郎の無為的態度を科学的に考えることは、現代の行き詰まりを打開し有意義に生きるためのヒントを見出す契機になるのではないかと私には思えるのである。