活元会 2017.9.21:野口整体とは生命に対しての礼

今日の活元会でした。教材のテーマは「生命に対しての礼」。

「野口整体とは何か?」と問われたときに、まず思い浮かべるのは「いのちを大事にすること」ということです。

それは自分の生命も大事にするし、他人の生命も大切に、大事にしていく。

そういう考え方を身をもって学んでいく姿勢を「野口整体」だと、こういうふうに呼んでみるとしっくりいく感じがするのです。

そのために活元運動を学び、愉気法を学び、整体操法を修めていく。

そういうような心づもりでつづけていくと、2年、3年と経ったときに、きっと身体のほうがそうした気持ちに応えて変わってきてくれると思います。

ところで今日の教材であつかいましたが、この活元運動というのはもともと秘伝であったのです。

諸般の事情で不特定多数への公開をはばかるという面もあったと思うのですが、それ以上に各々が「やる気」になってやっていただかないと、遊びとも健身法ともつかない変な集まりになってしまうかも知れません。

今のように、あちらでもこちらでも手軽に体験できるようになると「有難味」というのがうすれますが、往時は高額の講習料を納めてはじめて習うことができる貴重なものであったそうです。

これに因んで、むかし親鸞というお坊さんが「南無阿弥陀仏といえば救われます」といって村の人たちに説いてまわったという有名な話があります。

このような現代の人がなかなか信じないようなことでも、当時本気でその「念仏」に取り組んだ人たちの中には、それで救われた人がだいぶいたと思うのです。

「信仰」というものには概してそうした要素があって、なにか軽いアソビ程度のものだと思って半信半疑でやっていたら、何ごともたいした恩恵には預かれません。

「これは間違いない」、「本気でやろう」と思って心を一つにしてやっていくと、何ごとも目覚ましい成果が上がるものです。

これは教える方、指導者の力量も深くかかわってくる問題なので、一概に学ぶ人にばかり責任を負わせるわけにはいかないのですけどね。

しかし、うちのような日の浅い指導室でも数年つづけた人たちをみると、やはりどこか普通の人とは雰囲気がちがってくるから活元運動は素晴らしいと思います。

すこし見なれてくると「整体の人」というのは、すぐに見分けがつくようになります。

効果のほどは実際に体験してみないことにはわかりませんけれども、何にせよ自分で心血を注いて育てた身体というのは財産でしょう。

だれかに盗られたり、落っことしてなくすようなこともないですし、ぜひそういう「体育」というのを楽しみながらつづけていかれたら、それはそれで実りのある時間になると思います。

歳月を重ねてだんだんと心身が成長して行く姿をみるのは嬉しいですし、楽しいです。整体は一生ものです。