「異常感」を育てる

整体指導の目的は「自分の身体の異常が自分でわかる」ように訓練をしていくものです。確かに「身体を整える、整えてもらう」といったらそういう面もなくはないけれども、もうすこし丁寧にみるとその人の中にもともとある「整っていくための力」がきちんと発揮されるように、小さな異常に対しても敏感に反応する身体を育てているといった方が的確です。

現代を生きる人の大半は、健康というのは外部要因によって冒されやすく、病気になったら専門家にお願いして治療をしてもらうと考えている方が多い。そうすることによって、痛いものも痛くなくなるし、痒いものもじきに痒くなくなる。そういう便利な構図に依存して、実際自分自身の中に何が起こって、どういう処置によってどうなったのかを考えるような、そういう頭の使い方というか体の感性というのはあまり使わなくていい様になっています。

だから「自分の身体」だけどその身体の感覚というものをそもそもあまり信用していないし、むしろ感覚全般が錆び付いているので「何かおかしいぞ」と気づいた時にはもう烈しい痛みとか目に見える大きな異常だったりする。

整体指導的立場から見た場合に、そういう生活態度のことを「不整体」とこういう風に呼ぶことになっています。そのためにこれを「整体」という、自ずから整っていく本来の姿に戻してやらなければならない。そこで鍵となるのが当人の「身体感覚」であり、その中でも「何か妙だ」という感じをいち早く察知する「異常感の育成」が重要になるわけです。

具体的には「自分の身体に気を集める」、というそういう態度をひらすら鍛錬していく。おそらく昔の人はみんなそうやって、自分の身体に責任を負って生きていたと思うのです。例えばお百姓さんなんかでも「ケガをしたら病院に行けばいい」というような甘えは許されない。ひと月も畑に出られなくなったら死活問題なわけですから、われわれよりももっと自分というもの、その身体の在りようをしっかりと掴んでこわさないように気を付けていたと思います。

ところが近頃のように人々の価値観も生活も複雑になって、頭も忙しくなってくると、それまで自分自身の身体(内面)に向かっていた意識はたえず外を飛び回っているようになる。これが鈍りのはじまりです。

そこで例えばわたしのやり方だと直接手で「触れる」とか、対話でもって「感覚を問う」という方法で「そこ」に注意を集めていく。最近知ったけれども心理療法で行なわれる「フォーカシング」という技法とは理論的にとても近い。「今どういう感じがするか?」というのが自分の健康を自分で保つための入り口なのです。

こういうことを地道に繰り返していくことで、今まで外に行っていた心が自分の身体内に帰ってくる。本当に「主」が帰ってくるという表現がしっくりくるのだけど、自身の健康を保つ主体というのは常に「あちら」ではなく「こちら」にあるわけです。だからいつでもこちらの感覚から出発していくようにシフトしなければ「体を整えて生きる」といって頑張っても自立した健康には結び付かない。

治療という現象の主体はクライエントとか患者の方に在る、というのが整体指導の立場です。そういう点では心理カウンセリングも同じであって、「クライエントが自分で治っていく」ということがまず真ん中にどんとあってカウンセラーはその力が発揮されるための環境の整備に尽力する。自分の中にある「異常」の部分、「妙だ」という感じを感じる力を育てていくことによって、治癒がはじまるわけです。

ともかく治療の原理をずっと辿っていくと、当人の治癒力に頼っている事実に突き当たるし、治癒力が発動する要因が「これは治さなければ」という、異常をいち早く発見できる鋭敏な感覚であることがわかります。だからこそ整体の目的を「体を敏感にする」という一言に集約できるわけです。ここのところを理解して指導を受けられるのと、理解がないのとでは回を追うごとの結果に差が出てくる。そうやって自分の感覚を信用できるところまで発達させることが健康生活の原理になっていく、ということです。