二元的世界観の行末

前の記事で『風の谷のナウシカ』のことを書き始めたが、この『ナウシカ』を含めたスタジオジブリの4作品が現在東宝シネマで上映されているそうだ。単なる偶然だが勝手な共時性を感じる。

実質的にはみんなの無意識が『ナウシカ』の世界を必要としたのかもしれない。個人の〈こころ〉は深層部で世界全体とつながっている、というユングの仮説は折に触れて実感させられる。

今回の新型コロナウィルスにまつわる各種社会現象の方は小康状態を迎えている訳だが、冷静に見れば現在の落ち着きは台風一過となんら変わらない。時勢の移り変わりで自然現象的に物事が「流れて」いっただけである。

言い換えれば一時的に問題が消失したかのように見えるだけで、「病気」と「健康」の二元対立(病健二元論)を根底に残留する本件は、その根本に於いて問題が解消される動きは全く無いのである。

具体的に言えば、新しく感染症が発覚するたびに人間を分断し、物流・経済の部分的運休は言うに及ばず、気や心の流通までも萎縮せしめ心理的・物理的孤立を余儀なくされるのである。

一言で言えば、これは科学文明の自壊現象だ。

欧州近代より起こった文明の自壊現象は第一次世界大戦より始まったと考えられる。今日まで自然科学を絶対的真理の追究手段と信じて疑わずに来たいわゆる先進国の構造的矛盾は、定期的にその姿形を変えて、手を替え品を替え、人類に艱難辛苦を味合わせてきた。

いま語ろうとする『ナウシカ』はそのような科学文明における「人間」と「自然」の二元対立構造の矛盾をディフォルメし、如何にしてこれを超克すべきかを示唆する神話的側面を持つ。

劇中には人類を滅亡の危機へと追いやらんとする「腐海」という森が登場する。腐海は猛毒の瘴気を発する菌類を主とした死の森として人々に恐れられ、さらにその森には人間の進入(攻撃)から守護するかのように大型の蟲(むし)類が無数に共生しているのである。

かくして人間と自然は非連続的な棲み分けによる併存を余儀なくされており、そのような人類の窮地から脱すべく物語の中では人間が腐海の一大焼却を試みる動きまで描かれている。

しかしその目論見は達せられず、むしろ自然(蟲たち)の反発をはじめ、粘菌なども含めた生命全体の抵抗作用の前に人間たちはなす術なく、幾重にも打ちひしがれる羽目になる。

「自然は人間の問いかけた方法で答えを返す」と言うゲーテの言葉を実証するかのように、力ずくの支配では自然との恒久的共生は難しい現実が一層あらわとなるのであった。

原作である漫画版では物語が進むにつれてさらに驚くべき事実が明らかになる。それは腐海が自然に形成されたものではなく、1000年前の荒廃した世界を生きた人々が知恵をしぼって作り出した、人工的浄化システムであったのだ。

旧世界の人々が当時の高度産業文明によって汚染されたこの星をいかに清浄に戻すかを思案した末、人類によって排出された汚染物質を取り込み自ら朽ちて土に還っていく腐海の木々とそれを守護する蟲類、そしてこの腐海の発する瘴気に耐え共生できるように変性された人間(旧世界の人間は「人間」をも造り変えたのである!)、という人工的な疑似生態系を作り出し、数百年、数千年単位でその星を清浄な状態へ戻そうとする一大計画だったのだ。

そして世界から汚染物質がなくなったあかつきには人間を清浄な世界に再適応させるための技術までが「シュワの墓地」という旧世界より遺された建造物の中に文字によって伝承されていたのである。

このように周到に「仕組まれた」世界は依然として旧世界となんら変わらない苦しみに満ち満ちており、その中で苦悩と歓喜にまみれながらも力強く生きていく人間の実態に肉薄しながら物語は多面的に展開されていく。

物語の終盤で主人公である風使いの少女「ナウシカ」は上に記したこの世界の真実に感付き、そこに強い疑問を抱き始め、多くの犠牲に心を苛まれつつさらに前進を続け、ついには人間の生み出した欺瞞を喝破するに至る。

少し長くなったのでまた次項へ

風の谷のナウシカ

自粛期間中のGWにはナウシカを観よう、もしくは漫画を読んでみよう、という記事を書こうと思っていたのにずるずると間延びして、もはや緊急事態宣言も解除されてしまった。

そうは言いつつ今からでも遅くはない、興味のある方は是非ナウシカを再体験して欲しい。また、これまで体験したことのない人には原作を手に取り、読んでいただきたいと思っている。

言わずもがなだが『風の谷のナウシカ』とは宮崎駿原作の長編漫画と、そこから生まれた劇場用アニメのことである。これは宮崎アニメと呼ばれる独自の世界観が開花した最初の作品ではないだろうか。

物語の舞台となる世界の状況や時代背景は以下の引用部に簡潔にまとめられている。

ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は

数百年のうちに全世界に広まり 巨大産業社会を形成するに至った

大地の富をうばいとり大気をけがし 生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は

1000年後に絶頂期に達し やがて急激な衰退をむかえることになった

「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し

複雑高度化した技術体系は失われ地表のほどんどは不毛の地と化したのである。

その後産業文明は再建されることなく 永いたそがれの時代を人類は生きることになった

近未来を舞台としたSF作品は巷に数多くあるけれども、この作品の場合「おそらくこうなるだろう」という悲観主義的な未来予想図ではない。

連載当時の社会情勢とそこに潜在するさまざまな問題(民族、国家、思想、宗教、科学技術、等々)をモチーフにして、高度産業文明の興亡を背景に「人間は如何に生きるべきか」、いやそもそも「人間とは何か」、「生命とは何かという大きな疑問を作品全体を通して投げかけてくる。

こういった人間存在につきまとう根源的な矛盾に対し正面から考察していくには、既存の学問や宗教を捏ねくりまわすよりも、無意識の淵から生まれる「物語」のほうがはるかに豊潤で自由な創造性を刺激しやすい。と、思う。

そもそも文明とは人間の暮らしを「安全」かつ「豊か」にすべく生成されるものである。

その中でも科学を基盤とする西洋文明は、自然というものをコントロールしその恩恵を効率よく利用すべく発展してきたのである。そのために文明の発展に伴って、人間を自然から分離、乖離させる結果を招いた来たのだ。

そもそもが「自然科学」というものが自然と人間との対立構造を基盤に置くキリスト教文化を祖とするために、産業文明は時間とともに自然をじりじりと圧迫し、やがては大きな反発を招きついには文明そのものに破綻の影を匂わせている。

かつて様々な産業活動から起こった「公害」はこの科学文明の構造的ひずみが具現化したものと考えていいはずである。しかし公害が発覚した時にはすでに科学産業文明はのっぴきならない域まで複雑に社会機構へと組み込まれていたために、公害に関与する部分だけを社会からていよく切除することは困難であった。

ナウシカが生きた舞台は、そのようなニッチもサッチもいかなくなった高度産業文明が勃興してから1000年以上後の衰退した世界ということになる。

当然のことながらその時代になっても人間存在につきまとう矛盾もひずみを解決されてなどいない。

いやむしろ崩壊したのちに一定の時間が経ったことにより、その構造的な不調和が発酵腐敗して、文字通り「腐海」という名の死の森まで生み出していたのである。

今回のコロナにまつわる諸問題を目の当たりにすると、『風の谷のナウシカ』で示唆されていた「人間とは何か」、「人間は如何に生きるべか」という問いかけがいよいよ肉薄してきたように思われてならない。

劇中では腐海の毒を避けるべく瘴気マスクをつけるシーンが頻繁に出てくるが、主要先進国と呼ばれる国々の人々がみなマスクを着けて歩く姿と重なって見えてくるあたり、不思議な一致である。

ただそうした外観とはうらはらに内実はだいぶ異なる。我々の現実の方は腐海のような毒はどこにも浮いてないわけで、実際は目に見えないユーレイを相手に防毒マスクを装備して闇鉄砲を乱射しているようなものだ。この滑稽さが判らないというところが疑似科学文明の喜劇性であり、また悲劇なのである。

まあとにかく、この宮崎氏の先見性と言うか、本質を見抜く目は凄まじい。ナウシカの原作を丁寧に読んでいくと、そのことがつくづくわかるのである。これに因んで思うところ考えたことが諸々あるので、次回以降に分けて書いていければと思う。