迎春

今年は寅年だそうだ。昔のことだが私の実家に父が彫った寅年用の木版画があった。おそらく48年前のものだろう。

細密な虎の画のわきに「迎春」と彫られていたのが記憶に鮮明である。この寒いのに、花も付かないのに、どうして春なのか、とうのが子ども心に疑問だったのだ。

それから幾ばくかの歳月が過ぎた。すると迎春とか新春、あるいは頌春などと、年が切り替わる一月一日に春を見出した昔人の感性に親しみと敬意を覚えるようになってきた。

自然との共生が要であった往時の人々は、田んぼの水引きでも収穫でも、気候や天気と一体になって動かなければならなかったのだ。

自然から切り離された近代的な自我で、「我が、まま」に生きるということは許されない。具体的事情をいえば我を通せばそれだけ生存率が下がるのである。

そして自然と共生するためには、先に起こることが予感、直感されなければならない。

翌年の夏が冷夏になると予見して、米ではなくヒエを植えて難を逃れた二宮尊徳の話は有名である。

だから夜が明ければ朝になることは当然としても、その時に雨が降っているのか風が吹くのか、また月が出ているのかわからなければならない。

そして冬が明ければ当然春である。今日が寒いからと言って今日に適応するだけの動きでは次の波に間に合わない。考えて動くものは一つ遅れる。そしてその間に生命の機は去っていくのだ。

ここで「なるほど、昔の人はそれだけ優れていたのだ」といってしまうと、現代人としての学びも創造性もなくなってしまう。

実際的には現代を生きる我々の中にも「先を知る力」は常に働いているのだ。わかりやすい例をあげれば、受胎した人の体は10ヶ月後に何が起こるかを知っている。たとえ当人が無学、無自覚であったとしても、乳房は将来の赤ん坊のために発達し、腰椎や骨盤も来るべき出産に備えて日々なだらかに可動性が増していく。

自分が触れている気候との相関性もある。日本なら夏末にはもう筋骨が引き締まり、寒さに備え始めているし、そうかと思えば初夏を前にもう皮膚はゆるんでくる。つまりは地球の自転や公転、すなわち太陽系の動きと一つのリズムになって動いている自分というものが最初からあるのだ。

無意識の、こうした絶え間ない働きによって、平素から我々の無事は保たれているのである。

この無意識と親しむ時間が現代を生きる我々からだいぶ縁遠くなってきている。だから神様とか阿弥陀様とかいろいろな名前をつけて、もう一度親しみを取り戻そうとする動きが宗教の行為の中には沢山にある。

しかし意識化されたら最後それはもう無意識ではない。多くの人はそれを神様とか仏様とか言っているけれども、客観的に示した人はやはりいない。いのちの真相は私から最も近くて遠い存在なのだ。

この無意識に最も近い認識作用が感覚なのである。

最初に感覚されるものがあって、のちに意識の窓を通り理性の検閲を受け、ようやく行動化されるというのが人間の特徴である。

この感覚するという、生きるうえで重要な工程がだんだんと思考や文字の世界に圧迫され、廃動萎縮の道をたどっているのが近代人の特徴といえるだろう。簡単に言うと生の感覚が鈍っているのである。

天気予報や災害警報のインフラ拡充は、こうした鈍麻に拍車をかける要因の一つではないか。いや鈍っているからこそ、そこに需要と供給が生じたのかもしれないし、これは鶏と卵の理論でどちらが先かはわからない。うるさいことをいえば、折りたたみ傘などというのも雨の予知ができなくなった人間には重宝な装備である。

実際、一度ふいの雨に打たれた経験のある人がいつでも傘を持って歩くことがある。羹に懲りてなますを吹くという言葉の通り、頭が記憶に占拠されて、今の現実認識がくもるのである。

その点で感覚という作用は原始的な生き物の方がむき出しに近い。我々は遠い海の海溝で起こった噴火をずっと後のなってから他人の作ったニュースで知る訳だが、海亀ならば津波のある年には海浜からずっと上がったところに卵を産むという。原始生命に近い両生類の亀にはあたりまえの所作でも、大脳の発達した人間にはなかなか難しい芸当である。

東日本大震災の折には荒れる海をスマホで撮影していた子供が津波に吞まれてしまったという報道があった。

高度に発達した近代文明の象徴とも言える小型化されたコンピューターを握って水没する人間の姿に、私は人類の末期的症状を感じるのである。それが本来敏感であるはずの子どもであったという事実も傷ましい。

人間の子どもは一人でに大きくなるということはない訳で、高度な感受性を具えて生まれて来る子どもを鈍麻させる環境にこそ本当の災いがある、と思う。一方でその環境を配備した大人は大人の知恵で難を免れているというのだから、古きものが生き残り新しきが死んでいくという構図に、私は種としての未来を感じない。

年明け早々暗い話に傾いてきたが、ここからようやく整体愛好者の我田引水の話がはじまる。

こうして鈍りの一途をたどろうとする人間の生の感覚に活を入れ、再生せよというのが整体法の主張なのである。

無意識、そして錐体外路系のはたらきというのは宇宙の運行と機を一つにするもので、たとえ人間が滅んでもこの世界から平衡運動が消滅することはない。つまり易経の天行健である。

どんなに鈍った鈍ったといっても、体温が10度で動いている人もいなければ、43度という熱を出す人もいない(もはや「人工的」には起こりうるかもしれないが)。アナログ体温計のメモリが42度までしないということがこの生命の秩序を黙して語る。

そして呼吸は18ならば、脈は72である。この一息四脈というリズムは整体を象徴する数値であり、早くとも遅くとも、この比率からズレると元へ帰ろうとする動きが即座に起こる。熱や発疹などはこの平衡作用の代表的なものの一つである。

だから問題の核心は、この働いている秩序を害悪とみなして矯正または排除に奔走するのか、逆に善なるはたらきとみなして共感、共振、共生に向かうのかという分岐にある。

換言すると、病症のはたらきを生命を傷つけ死に至らしめる破壊作用としか認めないのか、あるいは破壊の中にある再建という生命の適応作用を観るのかという違いである。

後者であれば自らの病症経過の苦痛の中にも、自然整体作用の快感を見出すことも不可能ではない。

しかし現実は、病気は悪であり、その原因をウィルスや菌という外因にしか認ようとしない偏った見解が大勢を占めている。この事実からも近代科学のもたらした偏狭な視点が地球を席巻していることは明らかである。

その要因の一つが現代人の近視眼的視野狭窄があり、そのまた奥の要因として息の浅さ、そして不整体があるというのが整体愛好者による我田引水的視野狭窄である。

繰り返すが天行は健である。天地自然、この世界の全ての運行は最初から健やかさを失わない。この健の見えざるは近代自我の過剰亢進と似非科学の盲信のためである。

人間の世の中が如何に変わっても、自分を離れていのちはない。だから私は活元運動を通していのちの真相を自覚する人を、今年も一人でも多く増やしたい。それこそが人間の進歩だからである。

ここに至って「たとえ、百年かかっても、二百年かかってもよい。一人一人が、整体の考えを実現するよう行動してゆけばよい」という野口晴哉が生前発した言葉に、自ら真理と一体になって全うした生の荘厳さと息の深さ、そこから生じる視野の遠大さを感じるのである。

真理というものは、世の中が乱れれば乱れるほど、対比の構造によって一層明瞭になっていく。だとすれば、今ほど整体の真価が光る時代もないだろう。晴哉の見い出したいのちの世界に理解と共感を覚える人を増やしながら、堅実に歩を進めていきたいと意を新たにする次第である。

カウンセリングは時間がかかる

暗示やアファメーションで端的に自分を変えようという方法から比べると、正規のカウンセリングはだいぶ時間がかかる。

自分の性格変えたいとか、家族を含めた人間関係の悩み、あるいはもっと漠とした不安や意欲の減退など、これらをカウンセリングで解決しようと思ったら3~4年くらいは一人のカウンセラーのもとに通うこともざらである。

暗示療法とどちらがいいのか、というとこれは方法論の違いでどちらが優れているとは答えにくい。結果の成否もセラピストの力量やクライエントのパーソナリティにもよって変わるだろうから、なおさら平坦な比較は難しい。

ところで前の記事に書いたけれども、下手な暗示法はかえって身心の調子を乱してしまうことがある。臨床経験から言うと、暗示やアファメーションを「にわか」でやってきた人はお腹や背中など、体のどこかにに妙なこわばりを背負っていることがままあった。

このような場合、余分な暗示を入れ込むことで潜在意識に見えざる葛藤を作ってしまったのではないかと考えている。

そもそも催眠や暗示は心理療法の創成期に流行したもので、シャルコーやフロイトといった心理学創成期の治療家はみんな催眠の研究をしている。

ところが上手くはまれば即効性がある反面、クライエントが被暗示性の強い人だと内容の良し悪しに関係なく効き過ぎてしまう。また一方で催眠は効かない人には全く効果がない。

加えて治療プロセスの重心がセラピストにかかりやすいために依存関係になってクライエントが自立できなくなるなど、臨床を通じて徐々にその問題点が明らかになっていったのである。その結果、心理療法の主流は対話を中心としたカウンセリングに譲ることになっていった。

カウンセリングと催眠
しかしながら、現実にクーエのような暗示療法の大家もいたわけで、やはり人間から遊離した治療技法だけを取り上げて優劣を語るには限界がある。整体指導における野口先生の暗示の用い方も一流のものであったと言われている。とりわけ心身の生理的な波、呼吸の間隙といった整体流の観察と絡めて用いるそれは、余人には真似のできない無二の技術であったと思われる。

いずれにしても人間の生理やこれにともなう心の構造に精通してはじめて心理技法は奏功するもので、催眠や暗示法のメカニズムだけを知って素人が安易に扱えるものではないことは押さえておきたい。

現在の私は「急がば回れ」の思考でカウンセリングの方にやや信を置いている。それ以前に暗示法は難しくて使えない。実際の臨床においてはそこまで意識的な使い分けがなされているかというと、それも曖昧なのだが。

一般的なカウンセリングでもセラピストのちょっとした所作や言葉が暗示的に働いてクライエントを突き動かしていくこともあるだろうし、暗示療法を行いながらセラピストとクライエントに間にラポール(治癒的な心のつながり)が生じて、カウンセリング的に治療が進展していくことも充分考えられる。

特定の技法だけに限定して心理療法を進めるというのは現実から離れた考え方で、実際にはいろいろな技法を知識として学び、自らも治療と訓練を受けたセラピストの人格こそが治療現場では力になっていく。

まあともかく、暗示やアファメーションの良い面だけに捉われて、自分の心を安定的に作り変えられるという安直な考え方に疑問をぶっつけたかったのだ。

自我の再構成(心の治癒的変容)にはやはり正しく合理的な方法と一定の根気、そして歳月が不可欠であることを強調しておきたい。

成人ならば現在の「私」という自我が形成されるまでに要した時間は、年齢の数に母胎内の10か月を足したものがそれにあたる。人格の変容にも相応の時間と労力を想定した方がやはり順当ではないだろうか。

暗示

この2週間ばかり催眠、暗示の効果を検証していた。

例えば子供に「朝起きるとすっきり目が覚めて、起き上がる」という暗示を与えておくとその通りになる。

たしかにその通りにはなるけれども、果たして子供の様子は妙であった。考えてみれば当たり前のことで「朝すっきり目が覚める」ためには寝ている間に体の疲労が抜けてること、そして起きた先にある生活に意欲が持てること、という条件が必要である。

しかし目が覚めたところで1週間のうち5日間は学校に行かねばならない。小学校に上がれば行動の制限も増えるために、体力の充実した子供なら不自由を感じ「行きたくない」と感じるのも無理はない。その空想が暗に働くために、朝起きることが億劫になる。

心はいつでも体にくっついている。快活に行動してくための体の条件を無視して頭の中だけに「起きたらテキパキ学校に行く」という暗示を植え付けることは、心と体の同調性を乱す。こういう下手な暗示法は生命を傷つける行為だと後から気づいて恥じた。

自分に対しても何種類か暗示を試したが同様の理由でやめてしまった。やはり自己改革ということは個々の体の状態を無視して行うには無理がある。

今回の自分の感想とはうらはらに、世の中には暗示で健康に、暗示で優秀に、暗示で美しく、ということに関心を持つ人はなくならない。

いや暗示ではなく、アファメーションであるといってせっせとやる人の中には、旧世代から引き継いだ横文字信仰があるのかもしれない。

これも欧米のものとか新しいものには効力があると思い込んだ暗示の一つではないだろうか。

しかし何と言おうと現在意識の都合で無闇に暗示を用いることに賛成はできない。

例えば潜在意識に劣等感のある人は無意識に自分を立派に仕立てようとする。いや、立派にしようとするのは意識であるが、その意識は知らぬ間に潜在意識によって動かされた結果である。

「劣等だ」とすでに刷り込まれている上に、「いやいや、これでなかなか優秀だぞ」という観念をさらに入れていくのだから、心の中には見えざる葛藤を増やすことになる。

こういう意識以下の矛盾がいざという時に微妙に作用して、体をこわばらせパフォーマンスを低下させる要因になるやも知れぬ。そういう種をいくつも潜在意識に蒔いていったら雑念は増える一方である。

それは例えるなら、海水に砂糖をいれて真水しようとするようなものである。それならまだ純粋な海水のままの方が使い道があったかもしれない。

それでも「いやいや、とにかくこれがいいのだから」と思い込んでいれば、一定の効力はあるから人間の思い込みはすさまじいい。それはそれで楽しんでやれるかもしれないが、体の生理という観点から言えばやはり乱すものである。

そもそも生命に優秀も劣等もないのだ。ところが多くの人が過去の経験と記憶を引きずって生きているために、その結果として「…と、思い込んだ自分」を本当の自分だと錯覚している。

だから本来であれば「劣等だ」という暗示を意識線上に浮上させて、無意識的な影響下から脱することだけが、その人の心を自然に戻す力がある。

「良い子」とか「悪い子」も同じ理屈で、はじめからそういう子供がある訳ではない。

実際は一過性の事情でそういう評価を与えて、それが暗示となって固着してしまったものが少なくない。そもそもが大人の便宜で、管理しやすい状態にある子を良い子と決めてしまっている。

しかし体の生理に背く命令でも「はい、はい、」と素直に聞く子の多くは、自分の意志を通そうとする体力がないか、大人の睨みのために委縮しているだけではないか。

そういう実態を無視して、親とか教師が作り上げた「良い子」を押し付けたり、「悪い子」という暗示を植え付けた上からさらに矯正したりしようというのだから乱暴であり、無知である。

それでなくても普段から家の中でも外でも暗示は飛び交っている。そこにさらに暗示を加えるよりも、自分がかかっている暗示を解くためにその仕組みを理解し、潜在意識の掃除に努めた方が暗示の使い道としてよほど有益ではないだろうか。

AI

知らぬ間に横浜駅の地下街にAIの案内設備が置かれていた。「aiさくらさん」で検索すると詳細が出てくる。

道を聞く用があったのでタッチパネルに触れながら口頭で質問をしたら、流暢な、しっかりした日本語で目的地まで案内してくれた。こちらもつられて「ありがとうございました」というと「お役に立てたようでうれしいです」との返事。(ついにここまで来たか…)と隔世の感を禁じ得ない。

メイン通路を少し奥に歩いていくと、そちらで人間の案内係を見つけてほっとした。でも、もしまた同じシチュエーションになった場合にどちらを利用するかと考えたらAIの方を利用するだろう。

何故かというと利用する際のストレスがほとんどゼロに近い。声をかける際に「相手を慮る」という人間関係の重要な要素が全くないのである。

やはりAIとは違って人間の心は複雑だ。アドラーやユングによって有名になった「コンプレックス」という言葉も、元は「複雑である」という意味である。

平素我々は、表面的には理性的なやり取りをしているけれども、その下には常に潜在観念がうごめいている。

そのせいで人間は突如として怒り出したり、会ったばかりなのに好きになったり嫌いになったりしている。

しかし「急に、○○したので驚いた」などと言うのは普段我々が表面の心しか見えないからで、当人の心の中にはちゃんと合理的な理由があるのだ。

にもかかわらず、潜在意識下のことは他人はもちろん、本人にも全くと言っていいほどわからない。

こうした心の複雑性のために心理学の理論や学派は枝分かれして増える一方だし、それぞれの学派も深化と分化を繰り返してその研究には終わりがないのである。

だから心理学のプロほど「人間の心がいかにわからないか」ということを骨身に沁みてわかっているし、経験を積むほどに慎重になっていくのだ。

人間関係の醍醐味も心の奥深さや複雑さにあると言っていいけれども、こういう複雑性は「道を聞く」というような場合はあまり必要ではない。

そのせいか従来からエレベーターガールとか案内嬢といった職業にある方は人格や個性をなるだけ出さないように要求されてきたし、これを突き詰めれば早晩ロボットに行き着くのも当然かもしれない。

便利だなと思う反面さみしさを覚えるのは自分が旧世代の人間だからだろうか。

ここからはほとんど妄想だけれども、AIに案内された道を歩きながら「そのうち医者とか教員もAIに置き換わるのではないか」などと考えていた。

今回のようなコロナ騒動の場合は別として、風邪のような症状の場合はタッチパネルを前に話して、熱や脈などが遠隔で測定される。

そしてAIの医者が流暢な話し方で診断して、出された処方箋をもって薬局に行く。そこで3日分とか1週間分の薬をセルフで受け取って帰るのだ。

いわば病院の簡易版とドラッグストアの進化版が融合したような状態である。

学校も小学校の高学年、中学、高校と年次が上がるほどに単なる知識の切り売りの割合が増えていく。

だから生徒一人ひとりに「学校AI」を渡しておけば、教師の性別や性格、見た目などを生徒がカスタマイズして、あとは当人の好きな時間に勝手に勉強すればいい。

個性的で魅力のある先生との出会いのチャンスは失われるが、多感な時期の子どもが人格に偏りや歪みをもった教師に翻弄される害はなくなる。

完全に実現はないとしても、方向的にはこれに当たらずと言えども遠からずという向きに流れていくのではないだろうか。

そこへ行くと整体は人と人との接触によって結ばれる対人関係の技術である。そのためにAIと置き換わる公算は低いし、そうなってはならない。

しかしこのまま人間の力が落ちてくれば整体すらも「AIの方がまし」ということになりかねない。整体操法の真意が失われ、型だけが残った伝統芸能みたいになったらおしまいだろう。

そもそも整体法の知名度や普及率の低さを思えばそんなことはあり得ないのだが。

整体指導者は時代がどう変わっても社会の価値観に左右されることなく、そこに生きる人間の要求にピタリと応えられるようでなければならない。

真の贅沢とはこういうものだと私は考えている。人がそれを求めたときに確かなものを提供できるように、整体操法を途切れさせたくはないなとは思っている。

などなど妄想している間にAIのおかげで目的地には無事に着いた。心がないとこうもスムーズなものかと妙な所で感心もした。しかしもはやAIには心がないといいきれるだろうか、そもそも心の定義とは何か、とか、その後もしばらく暇人の思案は続いた。

死の恐怖

コロナ禍の様子を外から眺めていて、何故ここまで衛生法や薬に頼ろうとするのかなかなか理解できなかった。

それをあるきっかけで「どうしてこんなにも病気を怖がるのか」と視点を変えると、少し見える景色が変わってきた。

「病気になったら早く治したい」「治す薬が欲しい」「完璧に予防したい」と渇望する心の背景には無意識の死の恐怖がある、ということだった。

あたかも自分で気づいたように書いていながら、実は野口先生の古い講義録を読んでいたらそのまま書いてあっただけなんだけども…。

そう考えると、去年あった店頭でマスクの奪い合いででケンカになったという海外のニュースも肯ける。「単純にマスクをよこせ!コノヤロー」という話ではなくて、潜在意識化にある死に対する怖さ、というのが意識を操った結果のできごとである。

だから「今回のワクチンは胡散臭い」、「いまいち信用できないので打たない」と言っている人の中にも二種類あって、「人間は生きるだけ生きて死ぬときに死ぬんだ」と達観している人もいるだろうし、「ワクチンは嫌だけど、とはいえ病気は怖いし」とマスクと手洗いでせっせと衛生に努めている人もいるのだろう。

つまるところ病気を完全に克服するには無意識にある死の恐怖を克服するしかないし、それには「生きている」ということの実体を自分で明らかにするより他はない。

生老病死を克服する真理は釈迦が2500年前に見つけたものとちっとも変わらない。これは洋の東西などを飛び越えた、生きること死ぬことを貫く真理である。

例えば「アブラハムが生まれる前から私は在った」というキリストの言葉は、そのまま「父母未生以前、自分はどこに在ったか」という禅の公案の答えになっている。

「救済」とか「悟り」とか言われるものの根本は一つなのだ。

そして、どうやら昔の日本人にとっては禅は一つの嗜みだったようである。

ただしこれは生活しているうちに「はっ」と気づくようなもので、親から子へ、または先生から生徒へ「教える」ということはちょっと難しい。

よしんば気づかなかったとしても特にどうということもないので、知ってもいいし知らなくてもいい。人格的にまあまあ育って何か職業につければそれなりにやってはいける。

そうこうしている間に西洋化の潮流の中で禅文化の風土は雲散霧消していったのかもしれない。

そうすると当然心の不安、生死にまつわる漠とした恐怖をぬぐえなくなってくるので、そのポッカリと空いた心の隙間にさっと入り込んだのがペニシリンやストマイをはじめとする科学的医療手段の数々だったのではないだろうか。

だから現代の医薬信仰は中世の人が十字架を握りしめたり、神棚とか仏壇に手を合わせているようなもので、ふいに奪われると心の安定を失ってしまう。

柱に寄りかかって立っている間はどうしたって柱に執着せざるを得ない。

そういう心理構造の背景に「漠とした死の恐怖」がある、と考えるとようやく自分なりに納得ができたのだ。

自分の場合は整体法を知った時から病気の見方がコロッと変わってしまったし(これは野口整体の潜在意識教育のため)、お世話になっていた整体の先生が「野口整体は禅文化だ」と言い始めてからちょくちょく参禅をしてある時期からポコッと禅に対する疑念が途切れて湧かなくなってしまった。

今からすれば「ああ、なんだ…」という程度のものだけれども、これがあるかないかで世の中の見え方がこうも違うものかなと思う。

一般に力のある宗教家というのはそばにいる人たちから漠とした死の恐怖を忘れさせてしまう。それはある面では結構なのだけれども、下手をすると主がいなくなったとたんその集団は総崩れみたいになってしまう。

親鸞でもその死後はすぐに法が乱れてしまったというし、病気や死の克服はやっぱり自分でするより他ない。

いのちの真相は常に自分の中にある。

自分の中といっても中のものは目の前に展開しているので、ちゃんと眼さえ開ければ一瞬で解決する。

人間ははじめから生死を飛び越えて躍動しているのだ。これに気づいた瞬間、無垢な自分がゴロッとそこにそのまま出てくる。そして禍も福も、病気も老いもみんな消えてしまう。

万病に効く薬、これより他になし。

野の医療

河合香吏,1987『野の医療 ー 牧畜民チャムスの身体世界』東京大学出版会

東アフリカ、ケニアに住むチャムスという牧畜民の医療(医学)を通じて現地の人々の身体観にせまろうとしたフィールドワークの記録と考察の書。

『野の医療…』というタイトルから野口整体の考え方に何らかの刺激を提供してくれるのではないかと期待して読んだ。

読む前の予想を裏切ったのは、彼らが様々な疾病現象に対して非常に薬(薬草類)を好んで用いるところであった。

当たり前だが日本の都市のように救急車と病院に取り囲まれた環境ではないので、彼らの病や怪我に対する認識は大きく異なることが想像される。

怪我をしても整形外科に行けばいい、入院して手術をすればいいという甘えはまずないだろう。

そのような環境下で、科学とは縁遠い文化に属するチャムスの人々の病気や怪我への対処は、個々の経験を重視した合理的な方法を数多く有している。

そして病気に対する眼差しは西洋医学のそれとは異なり、あくまで自分自身の経験として病気は自覚されるものであって、客観的に分析され理解されるものではない。

具体的に言えば、胃がしくしく痛む、頭がずきずき痛い、といったしくしく、ずきずきという感覚から先ず出発して、のちに客観を働かせるのである。

現代の日本のように、自覚症状のない人を捕まえて検査し重箱の隅でも突くように「異常」を探して認めさせるようなことはない。

そして身体の変化の一過程として病気があるのであって、これを「負」のものとして捉えてはいないように思われる、と筆者はいう。

その原因の一つとして病気と死が直線的に結び付けられていない、というチャムスの傷病観について述べられている。

「死」というものは病気の有無とは別の系で考えられており、結果的に病気と死が重なり合うことがあっても、そこに因果性を見出していないように見えるのだという。

死は体が朽ちたり、破壊されることで訪れる即物的な現象ではなく、そうした物質的な理屈を超えた「何か」によって統制、もしくは支配されていると認識されているのかもしれない。

整体法においても「個体としての生命は、死ぬときに死ぬ」といったような、ある種因果律を超越したような達観がある。

現実に結核を乗り越える身体もあるし、風邪に耐えられない身体もある。また、癌の手術を何度も受けながら10年以上生きている場合もあるし、流感に一度罹って死んでしまうケースもある。

もっとも急変や急死などというのは、平素人間をモノとして観ているからそう見えるだけで、もっと丁寧に観察しておれば、その体がいよいよ鈍く硬直し死体に近くなっていることくらいはわかるはずなのだが。

ともかく病気と死は無関係とは言えないが、特定の病気が必ず死に至るとはいえず、病症の母体となっている「身体の状態」を見ずして人の生死を測ることは困難を極める。

整体ではこの「生きて動いて絶えず変化する身体」を「観察する」ことが技術の9割以上を占める。観察がある域に達すれば「死ぬか生きるか」ということがまず判る。「死なない」ということが判れば、相手の潜在体力を信じて静かに経過を待てる、これをもって技術の第一としたのである。

チャムスの「医」においてもそれに類似した死生観を匂わせる。そして病気というものを臨床経験と主観を重視して見つめていく態度にも親しみを感じる。

しかしながら整体法がやはり異質だと思うのは、病症に対して自然秩序の合目的性を見出し、これを合理的に活用する道を力強く開拓していったことだろう。

このことは『風邪の効用』という一著に集約されてるが、あれは風邪の対処法を纏めた本ではなく、東洋思想という水源上に結晶化した一つの哲学なのだ。

当然だがそれぞれが浴している文化が違うので、チャムスの医と整体法の優劣を安易に論じることはできない。

ただ日本の現状に照らして考えるならば、自然科学という一見強固なパラダイムの中で行われている医療でも、歴史的、地域的な視野を広くとればそれはごく一部なのだ、ということは知っておいて損はない。

現代において科学を疑う、というのはともすれば異常ともみなされる態度だが、チャムスの医や整体法のような主観経験を母体とする臨床の知というのは自然科学の死角になりやすいのである。

このような死角に生じた需要によって整体法は生まれ、今日まで命脈を保ってきたと言っても過言ではない。

野口整体と西洋医療という二つだととかく対置構造になりやすいが、『野の医療…』を読んだことでその閉ざされた構図にある種の広がりを感じることができた。

「人間の多様性」というのを改めて感じたし、人間を見る目の柔軟性も刺激されたように思う。

多様性と言えば、日本とケニアを往復しながら時に現地で年を跨ぐなどして12年もかけて本書を執筆した筆者の執念、というか興味の持続力には人間の感受性の違いというものをまざまざと感じる。

何にしてもこのフィールドワークの長編記録は大変に貴重な資料だ。一冊の本を読んで筆者にお礼、というのもあまり聞かないけれども女性でありながらこのような体験的考察を書きあげた著者に対し畏敬と感謝の念を禁じ得ない。

知識か「情報」か

鈴木哲也・高瀬桃子 著『学術書を書く』を読んだ。学術書を書いて出版するまでの道のりを懇切丁寧に纏めてある一冊。

現代はインターネットの普及によって情報の発信や受け取り、また公開された内容の修正や改変のスピードは格段に上がった。

このような状況下にあって出版から販売に至るまで多くの時間と労力を要する書物を出すことに果たして意義があるのだろうか、という考察が本書の冒頭でなされている。

本稿の見出しの「知識か「情報」か」、というのは本書につかわれた見出しの一つである。知識、情報、この二つの差異はいかなるものなのだろうか。

筆者によれば知識といった場合、そこには個人に染み付いた身体性を伴う知恵としての働きが含まれるという。

確かに知識を身に着けるという表現はあっても、情報は身に着けるとは言わない。

情報という言葉は必要に応じて拾ったり、人に渡したりできる手軽さを感じさる。つまりは情報とは人間と遊離した概念といえそうである。

現代は「情報の氾濫」などという言葉が定着して久しいけれども、確かに携帯電話などデバイスの発達のおかげで情報はどこにいてもいくらでも手に入る。

生活上の利便性という点では優れているが、それがそのまま心の安定につながるかというとそうとも言えないだろう。

「情報に振り回される」という表現もあるくらい、情報があってもそれを判断し取捨選択するちからがシッカリしていないと、かえって余分な不安や焦燥に駆られたり、イライラしたりせねばならない。

そういう点で、情報に自在にアクセスできるという状態と、知識が身についている、ということは大きく違うように思われる。

情報の取得に比して、知識を身に着けるには相応の時間や労力を要するのだ。

昔の大学生は自分の専門外の本でも一般教養として何日もかけて読んだそうだが、現代の学生は一か月に一時間も本を読まない人がいるという。

私自身どうだったか考えると、一か月の総読書時間が5時間を割っている月もざらにあったかもしれない…。当然一般教養は身についていない。

加えて、今やレポートや論文の提出もネットで拾った情報のつぎはぎで通ってしまいかねない世の中である。

こうなると一冊の本を辞書を引き引き読み進め、ガリゴリと咀嚼して知識を身に着ける力など到底養われないだろう。

その結果、本と言えば流動食みたいな軽いハウツー本や名言集しか手に取らず、ネット上で出所不明な情報ばかりを読みあさる人は増えていく。これでは情報を管理する母体としての強固な知識が養われる見込みはない。

これは非常に危うい状態である。

そういう考察から、結論として学術書を出版することはもちろん、読むことにも大いに意義があるのだ。

途中から本の内容か自分の主張か混ざり合って分からなくなってしまったけれども、現状のコロナがどうこう…といっている世相にあって一点思うところがある。

ネットで取得する情報には大きな陥穽があるのだ。

それは何かというと、ネットで情報収集した場合は自分にとって好ましい情報や都合の良い内容に偏りやすいのである。

例えばワクチンの成否、功罪という点を例に挙げると、肯定派の人は最初から肯定的な情報を目掛けて集め読む傾向に走りやすい。そして検索エンジンの性質上このようなことが可能なのである。途中で否定的な見解を見つけても、「これはおかしい(気に入らない)」と目をつぶって消してしまえばそれで済んでしまう。

当然だが否定派の人もまた同じで、はじめから否定的な見解を呈する発信者やコミュニティのサイトをよりどって元々の自分の見解を強化するための材料確保に走りやすい。

このような態度では自分の見解に発展的な広がりが生じる余地はない。選り好みした情報の取捨選択はもはや「学び」とは呼べないだろう。

ネットが普及する以前の、つまり本の時代だったらこのような問題は生じにくい。

紙の出版となると雑誌を一冊出すのでも「確かな人」でなければ寄稿はできない。発刊される際には、どこの誰が、いつ書いたものか、くらいは最低限明かになる。

単行本の出版となるとさらに厳しい審査の目をくぐらなければならない。学術書ともなれば出版の前に繰り返し査読が行われるし、出版された後には同業の専門家たちによる点検と批評を受けることになる。

このような経緯を経てなお増刷再版されて生き残っていくためには、一つの主張を述べるにも、いちいちその論拠を明らかにし着実に歩を進めなければならないのである。

先のワクチンの是非について考えるなら、スマホを手放して図書館に行って調べるとなるとワクチンに関する様々な本の背表紙に出会うことになる。

気になるタイトルのものを手に取って、目次を見ると自分が予測していたものを大きく飛び越えた見出しがいくつも出てくるだろう。

そこから興味の湧いた本を数冊読むことで、自分が要求していた情報の二回り三回り外周のものまでが獲得されることになる。

これによりワクチンは是か非かとしか頭になかった人でも、否定と肯定を包括する大きな知識に触れることができる。

いわゆる弁証法の正・反・合というプロセスもここから生じる。

つまり一旦は自分の考えを否定する見解に触れ、抵抗しながらも咀嚼し、消化、そして受容を経ることをもって私は「学び」と考えたいのである。

そのためには本の存在は不可欠であるし、むしろ今こそ本が見直されるべきだとも思う。

言っておきながら私はそこまで本を読んでもいないのだけれど、『学術書を書く』を読むと一冊の学術書が出るまでのさまざまな工程に触れて、これまで読んできた本のありがたみが増した次第である。

ちなみに続編の『学術書を読む』には、学術書を読むにあたって何を読んだらよいのかという本の選定の方法、そして読み方についても詳述されている。

忙しくて本など読む暇がないという人も多いかもしれないが、端末を開く時間をちょこちょこ集めてれば一日一時間、30分くらいは読書にまわせるのではないだろうか。

かく言うこの記事がブログであるというのが皮肉なのだが…、時にはスマホを置いて、本の世界に出かけてみるのもいいのではないだろうか。

いぼ

子ども(6才)の右手の甲にいぼができた。だいたい高さが2mm弱、直径は3mmくらい。

いつからあったのかちゃんとは思い出せないけれども、小学校に上がってしばらくたった頃にはできていたと思う。

医学的にはいぼはウィルス感染でなるらしいが、どうも見ていると捻じれ型(8種)の若い身体にできやすい。

わたしも10代のころはよくいぼができていたし、妻もかつてはあったそうだ。二人とも押しも押されぬ捻じれである。

ちなみにヨクイニンというハト麦から作る漢方薬を飲むといぼは2~3週間でとれる。

さてこのいぼだが、子どもは全く気にする様子もない。

親も気にせず放っておいたら、先日血を吹いて剥がれかけたので子どもがそれを見て泣いてしまった。プラプラしているのを爪切りで切ったらもうそれっきりなくなってしまったのだ。

医学書によるといぼのウィルスに免疫ができると、枯れたようになって取れてしまうらしい。

なんで今かなあと思うと、思い当たるのは夏休みだ。毎日学童に行って遊んで帰って、ゲームをやって、日々楽しく過ごしているみたいだ。

子どもは大人よりもずっと、感情と体が直結してるのだ。

面白くて楽しければそれが何よりの治療である。

現代医療は人間を物質の方から研究するので病巣は物理的に切除するか、薬を与えて科学的に変質させようとする。

しかし外から体をこねていじって形を変えたからといって、病気を作った運動系の癖や心理的な傾向がそのままであれば当然再発を繰り返す。

治療ということを本当に行おうとしたら、人間の中身を切り替えるということが要求されるのだ。

まあ今回は狙ってそうしたわけではないけれども、「何もしないで」いたら自然とそうなった。

もしいぼを人為的にいじったとしたらそれでも取れたかもしれない。けれどもはたしてそれを「治った」とか「治した」といっていいのだろうか。疑問が残る。

身体がひとりでに動いて治ったものだけを「治った」というべきで、それ以外はただ観測者の目を誤魔化しているにすぎない、と私は思うのだ。

ずいぶんとこまかい話のようだが、整体を身に修めるものとしてこれは重要な視点である。

自ら治る健全な身体を育むか、偏った身体を放置したまま外から治す方法を考えるか。

後者は泥棒を捕まえてから縄をなうようなもので、勘のいい人なら前者を選ぶ。

しかしまあ現実に整体はマイノリティなのだから、まずは勘のよく働く人間に育つような教育が必要なのだろう。

ところが今度はそういう教育の要求が起こらないことには指導者も教えることができない。だから結局は少数に留まる。これが世にいう狭き門なのかなと思う。

科学的であるために

あるプロ野球選手がワクチンを打った後に様態が急変、後に亡くなったというニュースを目にした。目にした、というか妻から聞いたのだが。

亡くなる前に一度様態急変のところで話は聞いていたけど、内心「どうなるのかなあ」と思いつつ後は忘れていた。

公式発表では「ワクチンとの因果関係は不明」とある。さすがに今回は「それでもワクチンは打ちましょう」という医大教授の追記はどこを探しても見当たらない。確かな根拠があるなら何があろうと載せればいいのに。

今回のワクチンについては随分いろんなことが言われているけれども、実際私の周辺の人たちはというとほとんどが「打つ派」だ。

私はワクチンの是非を言える立場ではないのだが、本件に関しては不確定要素が多い、という印象だけはつよく持っている。そもそも何とかワクチンといった場合に、それがどういう根拠で効能があるのか、調べてから受ける人は皆無に等しい。科学信仰の強固さが垣間見える。

そもそもがガラス管やネズミの体内で試した結果を人間に適用する、という従来の構図に私は信を置いていない。科学を神様よりも深く信奉している現代人の多くがなぜこれを受け入れられるのか、平素から不思議に思っているのだ。

生命は複雑だ。ある刺激を与えたら、そののちどのような反応をするか、予測することは極めてむずかしい。予測がつくのは限定された部位や時間に限ったことで、視野を巨視的に広げればそれだけ不確定さはさらに増していく。

「ここまではわかっている」「ここから先は未知である」「さて、今回あなたはどちらを選ぶか」といったら、これこそが科学的であり民主主義である。供給する側がこうした公正かつ客観的な態度を具えていれば、こちらもその合理性に賛意を惜しむ理由はない。

実験室から出てきたものだから妙な物のはずがないと科学を妄信したらそれはすでに似非科学であり、前近代的迷信である。

現代は科学的論理に支配されているのだから、科学に関する洞察と理解を怠ると自ら命を危険にさらすことにもなりかねない。本当に科学的であるためには、常に自分の眼を開いて自分の責任で事実の追求を行う態度を忘れてはならない。

人生ゲーム

母の一周忌で実家に家族が集まった時に人生ゲームをやった。懐かし過ぎる。

子どものころ遊んでいたこのボードゲームの王様も2021年8月現在で7代目になっているではないか。

職業選択の中にフリーターがあったり、進むのにつれて就職(転職)のマスがあったりして、なかなか時代性を反映していて面白い。

ゴールの一歩手前で火星に行くというマスがあるのは笑えるような笑えないようなギャグだけれども、なんだかんだよくできているなあと思った。

普段はipadでゲームアプリばかりやっている6歳の息子も、この日は一緒にこの前衛的なアナログゲームを十二分に楽しんだのだった。

しかしまあ勝敗の要素がゴール時の総資産という点は昭和の高度経済成長期の名残りを感じさせる。

平成の後期辺りからだろうか、お金は幸福の必要条件であっても十分条件ではなくなった。

先月の七夕の時に見た小学生の願い事も「大金持ちになりたい」なんて書いているのは低学年までで、それより年齢があがると家族の幸せや世の中の平和、安寧を願っているものが多かった。

衣食足りて礼節を知るという言葉が示すように、経済的に豊かになったおかげで求めるものも唯物主義から遊離してきているようだ。

だからといって何を求めたらいいのか、というとそれはそれで戸惑う。丁寧に調べたわけではないが、現代なら「何も求めていない」「今が一番大事(今が楽しければいい)」という人も存外いるではないか。

カウンセリングをしていると「中年の危機」の相談に見える方の内容は「何もする気がしない」あるいは「何をしたらいいのかわからない」という悩みに集約されることが多い。

やった人でないとわからないけども、これはなかなかきつい。

仕事はするものだ、と教えられて育ってきたものがふと立ち止まって自分の職業的存在価値を問い直してみると価値らしいものが見当たらない、意義を感じられないということがある日突然やってくる。

一所懸命に足掻いても「その時」が来るまではどうにもならないのである。

幸いにして人生ゲームは順番さえ待っていればルーレットを廻してコマを進められる。そして行った先で何があるかはその時が来るまでわからない。

実のところ本物の人生もこれに近い。生きている限り常に予想をはるかに超えた現実に日々出会っていく。

こういうものを仏教では「縁」とか「因縁」とかいったりしている。この偶然性を十分に味わう力があれば人生がつまらないなんて言っている暇はないのだが、なんだろう、そういう人生を味わう味覚が一時的に麻痺することがあるのだろうか。

しかしまあ、待っていればどこかに流れ着き、流れ着いた先が今日の〔今〕なのである。

人生ゲームをやりながら、人生というゲームのコマである今の自分をもう一人の自分が見ていた、みたいな話になった。