体得

体得という行為が世の中から失われつつある。

体得は体を通じて自認されるべき知識や技術であって、スポーツとか芸事、あるいは職業的な技能などは当然ながらこの体験によって会得するというプロセスが重んじられる。

しかし上に述べたような事柄以外、いまは大半のものが「調べる、分かる」ということでカタが付いてしまう。

学校の勉強、あるいは試験勉強などがその典型といえる。これはインターネットの普及と切っても切れない問題だろうけれども、この「調べる、分かる」というプロセスが体得に代わって現代の価値観を席巻してしまった。

非対面であらかじめ作られたプログラムを受動するeラーニングなどが現時点の最終形態といってもよさそうだが、ひとことで言えば「知る」という行為が過剰に幅を利かせてしまったのだ。

これはこれで便利な側面もあることは認めるけれども、体、体験というものが忘れ去られてしまったことの損失は前者の利点のみで補いきれるものではない。

私の立場からいうと教育と医療というこの二つの分野において、経験よりも情報の授受が先立っていることが気にかかる。

学校ではとにかく「覚えさせる」という、記憶に重点を置いた教育になってから、かれこれ一世紀が経とうとしている。

物事に直面した時に記憶に頼らなければならないのは当人の創造性の欠如に他ならない。

したがって子どものうちから記憶することを繰り返し訓練することは、既存の知識群のインプット・アウトプットに頼ることであり、創造性という観点から見れば頭を良くするどころか却って悪くする行為となりかねない。

その証拠に記憶することが達者な子どもほど難関大学を出て国家の中枢を動かしているものだから、現今の日本の行政は未曾有の出来事に直面したときの応用力や瞬発力というものが著しく乏しい。

医療にしても同様である。科学によって標準医療と言うものが一律に定められているために、今では現場の医師が個人的体験を基に主観を働かせる余地は異常に狭くなっている。

予め決められた判定基準に基づいて患者を診断し、診断の結果が出たら同様に定められた処置をする。これなら医療者が人間である必要はないではないかと思っていたら、個人的にもっとも危惧していたオンラインクリニックなるものまで出来上がってしまった。

未熟な主観に頼るのは勿論よくないが、客観的事実の集積によって総体を理解し得るという考え方は旧世代から引き継いだ悪癖である。

当面はまだ人間の介入が必要だろうが、早晩システムの管理職を除いて、現場から生きた人間の体温は徐々に失われていくことになるだろう。

なんというか「時代の流れ」というひとことでは受容しきれない異臭を日々嗅がされている気分である。

こういう世相なものだから自分のような者にも仕事があると言えばその通りなのだが、どうにもならない潮流の中でどうにかしようと足掻くことがライフワークとなりつつある。

体得から焦点がずれてしまったけれども、総じて体というものが忘れられたことによって、歳月をかけて「体で学ぶ」という文化は今後さらに希少的価値を帯びてくるだろう。

そこで何を体得するかは重要である。それが西洋発祥の随意筋を主体とした競技スポーツ、あるいはそれに付随する体操や運動ではないというのがもっぱらの自論である。

スポーツは体育としてなかなか優秀な面も合わせ持ってはいるのだが、いかんせん「競わせる」という意識が強すぎるために個人の運動能力を無視して肉体に過度なストレスがかかりやすい。

体育を目的としたスポーツをやりながら怪我や故障が頻発するというのはパラドックスなのだが、こうした矛盾が看過されたまま青少年の健全な育成にまで適用されているのは問題だろう。

弾力のある丈夫な体を育むためには随意と不随意、意識と無意識といった身心の陰陽を同量に刺激するものでなければ片手落ちである。

現代は学業でもスポーツでも常に競争にさらされ、子どもたちは意識過剰の環境の中で日々苦闘をしいられているのだ。だからこそ感情や意識以前の心と一体となって動く不随意筋群と錐体外路系を主とした体育こそがいま暗に求められているのだ。

その具体的方法としてさしあたり活元運動と禅はどんな人にも一様に勧められる優れた方法なのである。

ここに至って、無意識的思考、無意識的動作の訓練に重きを置いて来た日本文化の奇特さを再考することが、近代文明の今後を考える上で大きな意味を持つ。

「意識が閊えたら意識を閉じて無意識に聞けばいい」といった野口晴哉の言葉は時代や地域性を超えた普遍性を有しているのだ。

いのちの力を解放する鍵は体なのである。体を畏れ、体を敬い、幽かな慎みをもって今日を生きてきた旧来の日本的霊性を一日も早く取り戻し、その上にもう一度近代文明を据えることができたらそれが私にとっての丘の上の町であり、一つの理想郷だとも考えている。そこに至る道はやはり体得より他にないであろう。

胎教

前項の『いのちの輝き』の中でも胎教の重要性を説いているが、野口整体でも一生を通じて健全な人間を育てるという観点から胎教を重視している点は通底する。

医術ということを突き詰めていくと、必ず途中で教育の問題に突き当たる。病気でも怪我でも「どうしてこうなったのか?」「こうならないためにはどうすればよかったか?」とずっと辿っていくと、原因は過去にあるために「そもそもそこに至った生活から正すべし」ということになっていくのだ。

更にその生活スタイルに至った原因を追究していくと、幼児期に浸っていた社会、そして胎教に至るのは当然の成り行きと言えるだろう。

例えばうちの子でいえばもう8才なので、胎教のことをいくら思ってもとうに手が付けられない域に達している。同じ8才の子どもたちを見てみると、本当にそれぞれ個性豊かで人格形成の土台はほぼ完成しているという印象を持つ。

以前の私は母胎の中で体と心の発育の5、6割が済んでいると思っていたのだが、どうやらそれは誤りで、本当は9割以上がすでにでき上がってしまっているのではないかと考えを改めた。

たとえば人間の生活スタイルに朝型とか夜型という表現があるけれども、これは出生の時刻に起因しているのだという。明け方に生まれた子は概して朝型になりやすく、夜半に生まれた子は夜型になるという統計結果が前掲書の中に記されていた。

井深大の著作にある『幼稚園では遅すぎる』という主張も、この線でいえば育児を意識するのは生まれてからでは遅い、ということになる。

昔の日本には「お腹の子に障る」などという表現があったように、母胎内の生活が生まれてくる子の性格や体質にどれだけ強い影響を与えるか、ということが広く一般に共有されていたのである。

しかしながら現代のようにもろもろの事情で共働きが当たり前となっている状況にあっては、いくら胎教を叫んでも深い共感を得ることは難しいかもしれない。

もちろん妊娠期に多少の配慮を持って生活をする人はいるだろうが、かといって「いかに生活すればいいか」とい具体的な問題となると、整体法を正しく修めないことには的確な効果をあげることは難しいのではなかろうか。

すこし論点からはずれるかもしれないが、現代教育はとかく知育に偏り過ぎている。知育に加えて、徳育、体育が教育の三要素として掲げられているけれども、これらをばらばらにして、それぞれ別々の方法で育もうという考え方で果たして奏功するだろうか。

利発で、情があり、逞しい子に育てるための急所の時期を考えるなら、一粒の生殖細胞が数億倍に成長する受胎直後の数週間を軽視する訳にはいかない。これは体感的なもので現代人の好きな科学的根拠の確立を待っていたら実証は難しいだろう。

しかし現実に目を向ければ現代社会を生きる人々の心身の問題は山積みで、根拠以前の直感を頼りとし、速やかに胎教の実践を奨めたい。妊娠が分かった時点で仕事をしているなら早期に休暇を取り、家庭内においては妊婦に不当なストレスを掛けないように皆が協力し合うべきである。

社会制度の改正も結構だが社会の最小単位は個人に帰するのだから、社会の改革は個人を十全に育てることから考えねばならないのが道理だろう。

胎教に関してもう一つ知的な方からアプローチするなら前掲書に加えてトマス・バーニーの『胎児は見ている』を読むとその重要性をより深く認識できると思う。

環境問題が叫ばれて久しいけれども、自然を守ろうと思うならまず人間の内なる自然を護り心身の環境破壊をなくすことが重要ではなかろうか。

意識を閉じて無意識に聞く、裡なる要求を感じ生活する、こういうことは人間の自然を守り外界をも治めることに繋がっていく。教育も自然保護も百の論より足下の実践に尽きる。胎教を重んじ良い出産を迎えることはその第一歩であると思う。

いのちの輝き

久しぶりの書評、のような記事。オステオパシーの権威ロバート・C・フルフォード博士による『いのちの輝き』について。

個人的には二度目のトライである。10年以上前に一度購入したものの読まずに手放してしまった。当時アンドルー・ワイルをはじめとする欧米圏の代替医療関連の本を手あたり次第買い込んでいた。

とはいえ読むのがすこぶる遅いため買ったはいいが読まずの本が積み上がり、積読(つんどく)が一定量を越えたところで一気に放出してしまったのである。ひと言でいえば不明であった。

オステオパシーについてはカイロプラクティックとかスポンディロセラピーなどとともに、いわゆる横文字の代替療法として認識していた。他の2つについては全く不勉強で未だに知識を持ち合わせていないのだが、オステオパシーについては上の書を通じてごくごくさわりの部分だけでも知ることができた。

代替療法、手技療術としての個々の技術の背景に一つの思想・哲学体系が認められるのである。それはひと言では表しがたいが、一つの例を挙げると、体を部分に分けることで理解しようとする現代医療とは対極の視座に立ち、オステオパシーのそれは全身心を複雑系としてのつながりをもつ有機体として捉えている。

その結果臨床においては自ずと「見えないもの」「触れられないもの」「現象化する以前の何か」に対する配慮を重んずることになる。当然客観性よりも主観が重視されることになり、その主観を如何にして磨くか、ということが技術修得の鍵になる。

我田引水的になるがこうした態度は野口整体と通底する部分が多い。どうしてかと考えていくと、やはり観念主義的な学説よりも臨床で得た感覚と事実を重んじたことが大きいように思う。

現代人の好きな科学的根拠を求める場合、多くの人は迷信や思い込みではなく事実を重んじる態度こそが科学的であろうと考えている。

建前としては確かにそうなのだが、実際巷に横行するカガク的根拠の大半は、事実以前の「こうに違いない」という思い込みの方が優先されることが多い。

ここに科学のパラドックスが生じる。常識や一般的な社会通念よりも目の前の事実を大切にする民間の臨床家が非科学的という謗りを受け、既存の世界観や王道とされる価値観というフィルターを通して現象を読み取る、無自覚の妄信的態度の方が「カガク的」とみなされやすいのである。

この記事でいちいち例を挙げることはしないけれども、こうした事実か思い込みかの論争の起源を辿って行くと、天動説か地動説かで当時の欧州社会を揺るがしたガリレオ裁判を無視することはできない。

この辺りに関しては村上陽一郎著『近代科学を超えて』という本に詳しく記されているので興味のある方は参照されたい。

同様にフルフォード博士が一般的な医学の道から外れ、オステオパシーという医学の未踏ルートを歩み続けることは容易なことでなかったという。中世のガリレオやブルーノに対する糾弾にも匹敵するような批判を受けながらも、自ら真実と認められるものだけを拾い集め道なき道を逞しく歩いて行ったところも整体法と軌を一にする。

似ているから、同じだからどうだ、ということもないが、自然科学というものがいわゆる先進国と呼ばれる社会の最大の武器であると同時に強力な軛(くびき)となっていることを再確認できたことは収穫であった。

最初にこの本を読んだとしても無論それなりのインパクトはあったと思うが、それ以前に整体法という社会の裏街道を20年近く歩んできたことで多少なりとも目が肥えていたということが読解に奏功したと思う。

できれば院のサイトの方にも本書を紹介するページを設けたいと思うのだが、質とボリュームをどの程度にするか悩む。こちらのブログでもプロローグから終章まで良いと思ったところを引いていこうか、などと思っている。

できれば来院されるすべての方に一読を奨めたいくらいだ。とはいえ業界内では有名なロングセラー本なので、むしろ私が一番最後に読んだのかもしれない。

デジタルデトックス

私の整体の先生は「みんなが椅子座をやめて正坐に戻したら、日本人の病気の数は半分になる。」と言っていた。

いきなりここだけ読んでもちんぷんかんぷんかもしれないが、いわゆる生理機能とか自律神経系のはたらき、それと骨盤、横隔膜の位置や可動状態などの連絡性を実地で捉えたうえでの経験則なのである。

さて上の論法をまねて今の私がもう一つ訴えたいことを挙げると「スマホを手放したら日本人の病気の2割は消失する。さらに精神疾患の半数は軽減する。」ということである。

これについてもいわゆる一臨床家の経験談であり客観的データなど存在しない。ざっくばらんにいえば個人の独断と偏見である。

テーマとしては以前にも扱ったような気がするけれども、情報家電の過剰使用を原因とする心身の疾患、不調の数は今や相当なものではないかと思っている。

自分の子どもを見ていてもゲームや動画を観たあとの乱調ぶりは顕著だ。精神の働きが本来の波とは変性して異様にささくれ立つ。

さらに困ったことは一旦乱れてしまうと、その乱れたことで自分の乱れが分からなくなるのである。

加えて端末の利用はゲーム・動画と並んでSNSとの関連も切っても切れない。

私もかつてmixi、Twitter、Facebookと一通りいじったけれども、利便性よりも余計な感情を引き起こされる害のが大きいと感じたのでどれも辞めてしまった。

時間も相当に食われてしまう。ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる時間泥棒とは斯くの如しではないかと思った。

何よりその中毒性が無視できない。いつでもどこでも使用できるため、社会生活との癒着度が高い。結果的に依存レベルは酒、たばこをはるかにしのぐ。

ところが酒とたばこに関しては「害毒」といった側面が広く認知されているのに対して、スマホ、タブレット、PCに関しては直接的に害が他に及ばないせいか社会的に容認せざるを得ない。こういうのが恐い。

私自身も現代社会の中で子を持つ親として最低限のお付き合いはあるために、SNS系アプリは入れているが利用は最低限に留める様に気を付けている。

もちろん仕事の都合でSNSを手放せない人も相当数いるだろうし、何というか自然健康保持という観点からいうとデジタル端末の類は非常に厄介な代物というのが個人の見解である。

よってせい氣院に入ったら端末の使用を控えるようにお願いしているのも操法の一環なのである。普段はどうであっても一歩院に入られたらその時だけでも俗心を離れるつもりで是非遵守されたい。

さて、では普段どうすればいいかというと先にも少し触れたように「用途を限って適切に使用しましょう」としか言いようがない。

現在ではデジタルデトックスを目的とした集いもあると聞く。心の波を鎮めるための集団生活といえば、その元祖は禅寺の接心会ではないかと思うけれども、こうした活動が今ほど有効な時代もないだろう。

そんな私の思いとは逆行して小学校でも情報端末の使用を強化し、大手の塾は小学生からプログラミングの履修コースをこぞって展開している。

別にやってはいけないという話ではないが、身心の健やかな発育という観点からいえば特に後者のような学びは20歳を過ぎてから始めても決して遅くはないだろう。

独断と偏見の羅列で恐縮だが、少なくとも小学校を出るまでは体を大いに使うことと奨めたい。思い切り走って、転び、痛みを感じてまた立ち上がることは錐体外路系が物理的に形成されるこの時期だからこそ重要な経験だと思っている。

自分が息を切らして走るよりも、ゲームの中でキャラクターを爆走させている時間の方が長い、なんていう子は現代には相当数いるのではないか。繰り返すがまずはリアルで体を使うことだ。

反対に知育、育脳なんて言葉がもてはやされる向きもあるが、人間は脳だけで生きているわけではない。いやむしろ脳が過剰に肥大した人間にだけに戦争もあるし自殺もある。卑劣ないじめもある。

こうした事実を少しでも内省的に受け止めることができれば、自分の生活様式も多少なりとも変わってくるのではないだろうか。

雑草

「雑草という草はない、みんな何の〇〇という名前がついている」という言葉を以前どこかで聞いた覚えがある。

実際全ての植物に名前があるかは知らないけれども、考えてみればあさがおとか、なずなとか普段なに気なしに名前を付けて呼んでいる花も本来名前はない。

たまたま和名でそう呼ぶようになっただけで、全ては「草花」であり、その草花も全体の一部である。

その中で人間の生活に近く愛着の対象となったものだけが名前を付けられた。

さて、せい氣院には猫の額ほどの庭があるけれども、この額がちょっと油断するとすぐに雑草で埋め尽くされてしまう。

抜いてもむしっても、どこからともなく生えてくる雑草の強さにはいつも感心する。

ラベンダーやハーブを買ってきて、育てよ、増えよ、と世話してもふと気を離したすきに枯れてしまうのに、である。

そもそもがそこに生えないものを移植したうえに、土の管理がずさんときているのだから致し方ないのだが、それにしても次から次へと湧いて出てくる緑の芽にはやはり無尽蔵の生命力を感じざるを得ない。

一つ一つの個体として見れば萎れたり枯れたりしているのだろうけれども、やはり守られていない種は総じて強い。

淘汰というのは自分に向けられたらこれほど嫌なものはないが、種全体のことを考えればこれあって初めて生存力は喚起される。

そのために温室、日照、土、水、栄養とあらゆる方法で守られて育った種の中には、少し環境が変わっただけで再適応が行われず、そのまま立ち枯れてしまうものが多く含まれている。

これと似たような傾向は他にもある。例えば熱帯魚を放したら死んでしまうような汚水でも、菌やボウフラは湧いてくるのも同じ理屈と思う。

これを人間に置き換えたらどうだろう。

生まれる前から衛生、薬と外からの保護に浸りきり、生まれてからも過剰な栄養、熱が出ても下痢をしてもすぐに薬で抑えてしまう。

熱も下痢も生命の平衡要求によってなされる正当防衛の反応なのに、熱を下げることで病菌やウィルスに加勢し、それらを今度は薬で殺そうとする。

果たして殺菌薬による淘汰の波にさらされた病菌は再適応して、同量・同種の薬では効かない種へと変異する。

ここに病気と医薬のイタチっごっこが生じるわけだが、ともすればその病菌駆逐に囚われて、菌と薬の戦場となっている人体のことは忘れられてしまう。

庭に生える雑草と、人間の知恵で守られた花。

放っておけば淘汰の風がどちらに吹くかは明らかである。

人工花を生かそうとすれば保護の上にまた保護を必要とする。庇えば弱くなり、弱くなれば更に庇わねば育たない。

無論人間には保護が必要である。生まれたばかりの赤ん坊を野風に晒せばひと月と持たないことは誰も知っている。

ただその保護する中にも、相手の中に雑草と同じ強い生命力があることを忘れずにいたい。これを保ち育む考えが育児の中にもあって然るべきだ。

外を改めること以上に、内容の充実をはかることはさらに重要である。

そういう点で医学も衛生法もかなり前から180度の転換を迫られているのだが、いったん社会に深く根をおろした常識や価値観を転換するのは容易なことではない。

生き物の能力というのは使えば増す、使わなくなれば委縮してやがては消滅する。

歩けば脚は太くなる。悩めばそれだけ頭が良くなる。苦しむことでも心が育ち、人の苦しみもわかるようになる。

二千年後の世界まで人間が生きているとしたら、自分の手足を使い、頭を正しく用いて、苦しみを広げることがきちんと行われたためだろう。

熱も下痢も息も脈も考えてやることではないけれども、その考えてできないことをいのちは最初からやっている。

その最初からあるものを活かそうというのが整体の発想である。

これから獲得するのではなく、いま掴んでいるものをみんな手放してしまうと雑草と同じ力が自分の裡から生きてくる。

考えるよりも感じる方がいのちに近い。考える葦である人間も、考えない雑草から学べることはあるだろう。

波2

波のことは以前にも何回も扱っている。同じこと同じテーマで繰り返し書きたくなるのも波のせいだろうか。

なんというか、人間に波があると知って生活するのとしないのではだいぶ違う。

ある時は何もしなくても気分が良い。体力もある、無限に何かをやれそうな気がする。こういう時は晴れた日に快を感じ、曇りを疎ましく思う。これを高潮という。

またある時は何もしていないのに起きられない、意欲も出ない。物事を良い方に考えられない。晴れた日は疲れを覚え、曇りに安息を見い出す。こちらを低潮という。

どうしてかはわからないけれども、ともかくそういう構造をしている。

整体法ではさらに気の波、水の波と一人の人間に二種類の波を見ている。

一方が気分の波、もう一方が生理の波。

前者が10日で振幅するのに対して後者は7日であるという。

今の私が体を観てもそこまでわからないけれども、体量配分計という足裏の重心位置を測定する機械で一定期間測り続けると、その重心位置の移動が数値化され波形が見えてくるというから客観性は実証されている。

注意したいのは高潮期は「好調」という意味ではないということだ。高潮期は普段あまりしないようなウッカリや怪我も起こりやすい。

低潮期はそういう意味では堅実な期間で、ルーティンを淡々とこなせるという点では安心できる。

地球の自転公転、月の満ち欠け、潮の干満に良し悪しがないように、人間にもそういう波があるのだという話である。

ただ社会生活という中である個人を見た場合、結果的にそうした位相が良く見えたり、悪く見えたりするというだけのことなのだ。

この低潮・高潮の波をうまく掴まえることができれば、対人関係でも余分な衝突や軋轢を減らすこともできる。

子どもを叱るのも、夫に文句を言うのでも、奥さんに頼みごとをするのでもこの波を無視して行うから期待したことと反対の結果が生じることもざらである。

低潮期に叱れば萎れてしまうが、高潮であれば反発する。低潮期に頼めばこちらの要求も通りやすい。

また高潮期に文句を言えばふくれるに決まっているのに、それを知りながら敢えて言ってしまうのは自分にも波があるからである。

自分が自分の波を知らず支配されているうちは、他人の波を活用することも難しい。

どちらにせよ土台難しい話なのだが、波を活かすための一つのコツがある。

多くの場合高潮期にある人は活力を感じる反面、落ち着かない、やけにソワソワするので冷静になろうと努め余計にイライラする、低潮期にある人は意欲の減退が気になり動かなければ、働かなければと考えやすい。

しかしこれを波だと理解していれば高潮期は眠りが少なくとも動きたいように動き、低潮期は意欲と力の及ぶ範囲でできることをやってやり過ごせばいい。

どうせ人間は眠り続けることもできないし、起きて働き続けることもできないのだから。

波を知ろう、使いこなそうとするとかえって頭を熱くして裡なる要求がわからなくなる。

整体でポカンとすることを繰り返し説くのも、こうした波を含めてただ自身の裡なる要求と親しくあるためなのだ。

夏休みの最後に子どもと江ノ島に行った。今年はプールにはずいぶん行ったけど、海水浴はこれが最初で最後になりそうだ。

ライフジャケットを着せていたとはいえ、大きな波が来ると小学二年の体が一瞬消える。ひと時も目が離せないので疲れた。

こちらの心配をよそに、寄せては返す波の中で欣喜雀躍する子どもの姿を見ていたら瞬く間に3時間も過ぎてしまった。人工のプールではこうはいかなかっただろう。

ジャケットの浮力で小さい波が来るとふんわり揺らぐ。その度に声をあげて喜んでいた。

ボディボードをやったことのある妻に聞くと、「波に乗る」というのは楽しいらしい。

歌や踊りでも「リズムに乗る」、というのはある種本能的行為だが、これと同じように体の内なる波のリズムは外界の波と同調したがっているのかもしれない。

何故なのかな、わからないけれども、考えてみればこの世界に「波」は遍満している。

海辺のさざ波はもちろん、潮の干満はもう一つ大きな波だ。

春夏秋冬も波だし、草木が生い茂って、やがて枯れるもの波と言えるかもしれない。

当然人間の呼吸も波だ。脈も波だし、そもそも人が生まれて、成長し、老いて死ぬことも一つの波ではないだろうか。

そう考えるとみんな波の中で、波を意識することなく生きているのだ。

コロナも「第何波…」という具合に罹患者の増加率は波形をとっている。これも自然の妙だろう。

咳やくしゃみによる飛沫感染云々…という現状の科学的因果律だけではこの「波」の説明はつかない。

整体法では感染症の原因を病原細菌に置いていない。コレラ菌を飲んでもなんでもない時もあるが、体があるコンディションの時だけコレラ菌が増えて下痢をする。

同様に体に平衡要求が生じなければインフルエンザでも肺炎でも結核でも、いくら病原菌に接触しても発症しないのである。

これは「…かもしれない」「…だろう」「…のはずだ」といった観念主義的な妄信ではなく、事実の集積に拠って得られた一つの現象学的結論なのだ。

個人の体は発症の要求によってそれぞれ症状が生じるけれども、上に書いた罹患者の総数を見るとそこには集団としても何らかの合目的性がありそうだ。

人間がいくら個人主義を叫んでみても、その個人同士は何か見えざるつながりを持って、全体として、一つの波の中で生きていることを認めざるを得ない。

意識しようとしまいと、誰もが同じ波の中にいるのだ。

もしも海の水が引いている時に、これを満たそうとして子どもが水を撒いたら大人はその無知を笑うかもしれない。

だとすれば人間の意識で作り出した薬やマスクで自然の波に抗し得ると考えることも、同じ次元の行為とは考えられないだろうか。

海では波に逆らうと飲まれてしまうが、反対に波に乗れば快感がある。

海水を分析しようとしながら波をかぶってむせているよりも、自然に溶け込むように波を感じ、これに乗って生活する方が高度と言えないだろうか。

整体は原始の心である。それでもこの原始の心が未来を拓く可能性まで否定することはできない。

そのためにまず自分の波を感じられるように心を静かにする必要がある。

我々が整体であろうとするのはそのためである。しかし体が先なのでも、心が先なのでもない。

それらの総体としての何か、それを整体では「気」といっているけれども、体を忘れ、心も忘れ、自分さえも忘れて動いているときその人は気の波になっている。

海の波に乗ったときように、今の息の中にも、病気と言われる体の働きの中にも丁寧に観ると快感はある。

病気は恐ろしいという先入主から自由になれば、それは自然に感じられるものだ。自分を捨てて、意識を鎮め無意識に委ねることである。

決してむずかしいことではないけれども、意識の発達した人間が波に乗るには訓練がいるのだろう。

整体法はその訓練そのものである。

教養

妻から車内暴力のニュースを聞いた。50代の男が電車のガラスを割ったそうだが、昔だったら初老の域でも現代では力の余っている人が多い。

とはいえ火事と喧嘩は江戸の華とかいう古語もあるくらいだから、一口に現代だから…とは言い切れないかもしれない。

無論個人差を無視するわけにもいかないが、人間の生理構造上、暑くなると普段大人しい人でもイライラしやすくはなる。

戦争や内戦をしている地域が赤道付近に集中しているのも、もしかしたらこういう理由によるものかもしれない。

しかし暑いからといって誰もがカッカしているわけではない。涼しいモスクワにだってムシャクシャしている人はいるだろう。

生きものには自分の要求を果たそうという願望があるために、これがスムーズに行動化されないとエネルギーが鬱滞する。

この鬱滞したエネルギーが厄介なもので、そのせいで人間は他の動物よりも余分にイライラしたりカッカしたり、またクヨクヨしたり病気になったりしている。

先進文明国などといわれる地域では、人間がいつしか労役ということを忌避するようになったために、大脳を働かせることで肉体労働から解放されることが幸福だと考えられるようになった。

本来動物である人間は体を動かすことに快感があるはずなのだが、資本家という概念の誕生とともに労働者に対する不利益なイメージが定着してしまったのである。

先にも書いたように、面白いのはエネルギーが余ると余計に暴れたりカッとなったりするばかりでなく、陰気になることである。

子どもの意地悪や告げ口が、学校や親の過剰な行動制限と無関係であるとは言い切れない。

もとから意地悪く生まれて来た子などいない。思いっきり体を動かした後は大抵みんないい子なのだ。

意地悪で病気や怪我ばかりしていたような子供が野球やサッカーをはじめてから快活になった、という例などは上の理屈を裏付ける。

もちろんスポーツをやったおかげで健全な精神が養われた、とか立派な指導者が子供の人格を育てた、という解釈もわからなくもない。

そういう事例も確かにあるだろうけれども、個人的にはそれ以前の生理構造による面が大きいように思う。そして、とかくこちらは見落とされがちだ。

日本の都市型の生活だと大人はもちろん、子供の運動量も生理的欲求に比して圧倒的に少ない。

冒頭で書いた電車のガラスを割った男でも、電車移動ではなく仕事道具一式にお弁当、飲み水を4、5Lも背負って歩いていたら、また話は違ったのではないだろうか。

余剰エネルギーを抱えたままで、みんな仲良く平和に暮らそう、といってもやはり生理的自然に背いているだけ無理がある。

だから現代の場合は道徳や倫理を説く前に、人間の構造の見直しが必要だと思うのだ。その際は客観ではなく、主観から再出発したい。

既存の科学的な理論は後からでも役に立つ。今はそれを一度わきにおいて、今は現象学的接近法による事実の集積に注力すべきではないだろうか。

我が身つねって…という言葉があるように自分の感覚から丁寧に観ていけば人間に対する理解は今よりももう一つ深化するだろう。

今や情報はいくらでも手に入るのだから、情報などではどうにもならない、自分の体を自分で統制するという内的な教養の方がはるかに価値がある。

それも体温とか消費カロリーとかそういう客観によるものではなく、主観的な秩序感覚や快の感覚によって支えられるものが望ましい。

意識が外へ向かって探し回っている間は自分のことが判らないのである。だから意識を閉じて無意識に聞く。整体であるということは、意識が静まっていることでもある。

だからことさらにヨガや体操などしなくても、生理的欲求が落ち着けば体は自然に整う。すると自ずから自我は沈静化する。それと共に自分と世界の境界を忘れ、いのちの真相が現れる。

この自分とか世界とかを忘じた状態を道元は身心脱落といったけれども、1000年前に広めた教えでも、当時の人たちよりはるかに多くの知識を持った現代人が履行できないでいる。

現代に求められる教養、生きるための教養とはこういうものではないだろうか。

根性

子どもが少年野球のチームに入ったので父親の私も補佐役として止む無く球界入りを果たした。

生来運動音痴だった私は幼少のころから野球に近づくことなどありえなかったのだが、人間長く生きてみると何があるかわからないものである。

とはいえスポーツに疎かった私にも、ささやかな武道経験がある。高校の時に一念発起して空手の道場に入門したのだが、体育会に対するイメージはこの時に強く形成された。

向こうも商売だったのでそれなりのエンターテイメント性もあったけれども、そこはやはり空手の道場、厳しい所は厳しかった。

人間臭い理不尽さもあったし、後輩の態度が気に入らなければ組み手の場で制裁が行われることもままあった。かと思えば力量次第で下剋上もある。

まあ壮年期の男社会なら意地と面子の張り合いは付きもので、それは当たり前だったのだ。

そんな世界だから少年部の指導など言うことを聞かせるにはガツンと言えばそれで終わりである。

そんな印象しか持ち合わせてなかったものだから、現代のスポーツ指導の環境には隔世の感を禁じ得ない。うわさには聞いていたけど今の指導法はソフトでやさしい。

努めてそうしているのかわからないが、昔だったら「〇〇しろ!」で終わりだったものが今は「〇〇しよう」と語調もやわらかい。

それでもそれなりに秩序が成り立っているのだから、何ごともやってみなければわからないものである。

怒鳴り声とか体罰だとかは軍事教練がそのまま義務教育に流用された昭和の名残りだったのかもしれない。

そういえば最近は根性という言葉も聞かなくなった。

あれほど重要視されていた根性という概念も早晩死語になりつつあるのだろうか。

苦しいことや嫌なことでも耐え忍んでやり抜けば、その先に栄光も成功もある、といった考え方はある時期までは共通感覚だったように思われるのだが、今にして思うとそれも疑わしい。

野口整体では人間が全力発揮するためには自発性が大事であると説く。賃金をもらって担ぐ荷物は重いが、自発的に行くスキーやゴルフの荷物は軽い。一日重荷を担いで歩いてもその足取りは軽快である。

この論法から行けば先に書いたような根性論など全く無意味に思われる。

日本のプロスポーツの世界を見ても、昔ほど泥臭さや汗の匂いを感じさせない選手が増えた。それでいて世界のトップクラスで活躍する人の数は以前より増えている。

こうした選手たちの影の努力や根性を否定はできないが、そういった面を美徳として見せようとしたり、また周囲もこぞって取り上げようとする風潮はだいぶ失せたように見える。

実質的にはどんな指導法でもその是非は当事者に合うか合わないかなので、各々の優劣を一元的に定めることはできない。

とはいえ戦後70年以上が経過した現在は全般的に心の使い方、指導の仕方が洗練されたと言えそうである。

さて、そもそも根性という言葉の定義、ルーツを探ってみたらこれは仏教用語の「機根」という言葉が変性したものらしい。

これは生来の質(たち)とか、その人の持つもともとの性格などを表す意味あいが強かったようである。

少し厳しい言い方だが、素質のない人間はいくらむきになってガリガリ修行してもあさっての方向に突っ走ってしまうのが関の山なのである。

そのために指導者は志願者の機根をよく見極めて、入門の是非から厳しく見極めましょうという考え方があるのだ。

だから仏典には修行者の資質のことを上根とか下根とかに分ける話がよく出てくる。

これが一般用語になるときに転換して、俗にいう「根性」という言葉が出来上がったようだ。

語彙というのは得てして当時の世相や価値観の影響を受けて変質しやすい。だからかつてのような用法でなく、個人の資質にあった教育を施す意味で新たな「根性論」が形成されたら面白いかもしれない。

根性をいろいろ調べていたら『ウマ娘 プリティーダービー』というアプゲにはラストスパートに反映される〈根性〉というステータスがあるらしい。競馬と根性という昭和の風は姿を変えて今日も吹いているようである。

つながり

西洋史にも国際情勢にも疎い私は今欧州で起っていることを戦争といってよいのか、何といってよいのかわからない。けれども何か前近代を思わせるような人間の原始的な暴力に傷ましさを覚える。テクノロジーが進歩してもそれを扱うヒトの構造は昔と比べて全く変わっていないのかもしれない。

今回の事にかぎらず人間の世界を定期的に襲う不条理な感情の暴発の背景には、文明生活によって絶えず生じる余剰エネルギーの鬱積と、抑圧され行き場を失った性の欲求があることは見逃せない。

夫婦喧嘩から始まり車内暴力も戦争行為も、その要因を辿っていくと人間の生理と、生理に随伴して動く感情の問題に突き当たる。高等教育を受けた人がどんなに高尚な理屈を打ち立てても、その理性は最初に在った感情や生理的な要求の下位におかれて働いていることは否定しがたい事実である。

だから精神活動と不即不離の関係にある体の理解を深め、これと理性を親和的に統合させていく方法を学ばない限り、人間の世界はいつも予期せぬタイミングでふわっと荒んでしまう。

侵略という行為は自己の威勢を拡大しようとするものだが、そもそもが自己を拡大し威を示そうというのは生き物の原始的な生存欲求の一つである。

高度な教育を敷いているはずの「いわゆる」先進国においてなお然りなのだから、人間と言えど頭の中に道徳を教え込むだけで本能の活動を抑えることがむずかしいことは明らかである。

こうした現実を見るにつけ、人間がどれほど理屈や身なりで着飾ったところで、やはり自然の動物の一種であったことを忘れる訳にはいかない。

そして生態系の中で人間が増え過ぎたために自我の境界線が狭まり、そのために自分のことしか考えられなくなってきたのだすれば、それもまた増え過ぎた種が縮小へ向かう自然のリズム、淘汰の働きとみるべきかもしれない。

ネズミなどは一定区域内で増え過ぎると次第にオスがオスを、メスはメスを追い始めるそうである。人間にもこれと似たような傾向が起こっているけれども、ネズミの場合はそれでもさらに数が増え続けるとやがては食物を求めて大移動の果てに河川などに飛び込んで死んでしまう地走り現象というのが認められている。

人間も太古の時代は食料を求め移動の末に消滅することがあったらしいが、食料自給力が向上してからは特定の地域に定住し、人間の増え過ぎた所には決まって疫病が流行るようになった。ペストなどがその典型と言えるが、こうした伝染病の間隙には自然発生的に戦争が起こってくる。

現在のごとく生態系の中で人間の比率がこれほど増大しながらも梅毒もエイズも抑え込み、肺炎の蔓延防止に奔走するとなると、鬱積したフラストレーションの流れ着く先が大規模自壊現象としての戦争にいたるのは自然の生理現象と見るべきではなかろうか。悲痛な現実だけれども、人間からこうした「生理機構」を完全に排除することはできない。

一方で遠く離れた地域で起こった戦争の知らせを聞いて胸を痛めるのも、やはり人間に息づく原始の心によるものではないだろうか。自己保存と種族保存という本能の根源的な二つの要求の中には破壊の要素もあれば建設と愛護の要素もある。

だから自然界には弱肉強食などと言われる峻烈な競争原理があるかと思えば、次代を担う若い芽を互いに庇い育もうという太母(グレートマザー)の心もある。この力があってこそ人間も今日まで繁栄を保ってきたことは否めない。

言わばこうした他の生命を自己の延長として感じる、意識以前の「つながり」のようのなものが文字通り生物の生命線ではないだろうか。これに因んでアダム・スミスの主張した、「礼節」に先んじて要求される「共感(fellow feeling)」という概念を思い出したが、どこか通底するものを感じる。

とかく競争原理だけが強調されやすい近代資本主義の出発点において、過当競争による不幸な敗者や被害者を生み出さないために、個々人の内的良心に基づいた他者への配慮や道義の重要性を強調している視点は興味深い。

経済活動においてもこうした共同体としてのつながり感が意識されることで、互助的で永続的なコミュニティが形成されることは想像に難くない。

人間にとってこういう漠とした「つながり」がいつのまにか希薄になり、個人の孤立を生んだメカニズムは、科学を産み落とした近代文明における最大の陥穽ではないだろうか。

地球を飛び出して火星まで行くことも、また核爆弾を作ることも進歩には違いないが、むしろ人間同士の意識以前のつながりをより強固に、豊かにすることを考える方が、これからの世界に希求される人間の進歩であり深化のように思う。

近代科学文明はこれまでなかったような大規模な戦争を生む一方で、戦争開始の一報を聞くや株式のレートに噛り付いている、などというのも文明国の持つひとつの側面である。

他所の国の不幸を偲んで経済活動まで放棄する必要はないけれども、上記のような行為の中にもやはり心の「つながり」の希薄さを感じる。

人間は互いを理解するために言語を基礎として理性を発達させてきたと考えられるが、理性の発達に反比例するように言葉以前の気のつながりが退縮しているとしたら、意識の上だけでいくら言葉が飛び交ったところで、温かい心の交流は望めないのではないだろうか。

人間の世の中に繰り返し引き起こされる凄惨な争いの真因は、人間の理性が自我を小さく取り囲んでしまい個々のいのちが孤独感に苛まれているからかもしれないのだ。

整体法というものにわずかでも関わってきた者としては、人間がこうした個人、その中でも自我意識を最小単位とする生命の孤立状態から脱却するための道を開拓したいと願う。

それには人間一人一人が特定のイデオロギーや宗教観、民族などの分化を受ける前の「気」というような漠とした概念、あるいはそうした働きを前提とした生命の根源的な一如感を自覚するより他はないだろう。

このような世界を実現しようとすれば、これまで人間の中にも厳然と存在しながらも否認と排撃の対象でしかなかった「自然」、あるいは「野生」というものをいよいよ不問にしておくことができないのではなかろうか。

だいたい20世紀後半頃からしきりに生態系という概念が叫ばれるようになり、以来人間と外的自然との調和が問われている。これと同様に人間の内にも息づく裡なる自然とも旧交を温め、これを活用するための有機的な身体性を自得する新たな教養の開拓が必要だろう。

体制の変革というものは個人の改革を無視しては成し得ない。だからこそ「一人の人間を育てる」ということは今後ますます重要性を帯びてくるだろうし、幼児教育や胎教に関しても整体法の保有する知恵は、より高度な次元で共有されるべきだと私は考える。

そしてそれは学術や学問と呼ばれる知識の分野に収まるものではなく、修養とか修身、修行などと表現される、知識・人格・身体性などを合一させたホリスティックな教養体系でなければならない。

高度なテクノロジーによって人間だけが異常なパワーとスピードを手にしてしまった今だからこそ、一人一人が身体を自我に統合し、積極的に「自己を治める」高次の身体性が希求されている。

ここに至って、人間において外界を変えようとする努力は依然有効だが、それ以上に意識を積極的に静め、無意識による裡なる自然秩序を回復し身体を必然的に整えていく態度こそ、現代人に課せられた使命であるように思う。

これはたましいの救済と全人的教育を担う宗教という分野においてなお適用されるべきであろう。これにより、今まで個々の地方性や時代性故に互いの普遍性を否定し、紛争の火種となってきた宗教の負の面を払拭する可能性も生じてくる。

頭で作った観念ではなく、今ここで確かに「感覚される事実」から出発し直すことで、これまでの地域性と時代性という枷から自由となった本来の宗教、すなわち普く人間を律し、恒久的な安らぎ(涅槃)へ導かんとする普遍的宗教としての姿も自ずとそこに現れるのではないだろうか。

しかしながら学問は文字や数式によって伝えることができるけれども、上記のような身体を伴った教養というものは一代ごとに元に還って、ゼロに戻ってしまうのだから悩ましい。

また感性や情といった自他の生命を支える上で重要な心の働きはデジタルで画一的に学ぶことはできないものである。これらのものは親はもちろん、その他の保護者や養育者という立場にある、周囲の大人たちの熱意や愛情によって有機的に育まれるものである。

もちろんこういった心が人間の世の中から全くなくなってしまうこともないだろうが、科学や学術を主体とする知的教育(知育)の普及に反して、こうした生活上の利害得失と直接関係のないような心身の教育—徳育と、本来の体育―の成果はどこか捉えどころがなく、成否の判断もつきにくい。

この点については近年になって「非認知能力」という言葉が生まれるなど、数値化できない子どもの能力が注目を浴びるようになってきたことは、戦後教育に対する反省が生んだ一つの転機とも考えられる。

こうした視覚化しずらい問題に対して体制側が概念化して「画一的に取り組む」という姿勢に対して私は慎重な見方を支持するけれども、戦後ほとんど等閑視されてきた教育のソフトな面に対して公的な注意と関心が向けられたのはやはり進歩と見做すべきだろう。

このような傾向にあいまって、人間の情緒や感性の全き発育のために母胎内の十ヶ月に行われる豊かなコミュニケーションがいかに大切なことか。また産まれてからの十三ヶ月間に育まれる潜在意識の作用などについても、広く認知されるようになるかもしれない。

こうした世の中の動きにも目を配りつつ、整体法の世界は独自の視点を保ちながら研究の手を緩めてはならないと思う。整体指導者にとっては「生きている個人の体に向き合う」行為は貴重な臨床の知の生産点であることに変わりはない。

一方でここで得られた知恵を、内輪にしか理解できない体験知と決め込んで、公開し理解を求める努力を拒否してはならないと思う。現場で得られた事実を冷静に解析し、客観性や論理性を付与して広く開示しようという気持ちはあってしかるべきだ。

野口先生の生み出した整体法が今日まで良質な支持層を保ち続けてきた要因として、膨大な臨床例によって得られた事実の集積もさることながら、それを表わす際の高い論理性と平明な表現力を無視することはできないのである。私からすると大変高度であり難しいことだけれども、これからも微力なりにできることをやっていきたいとは思っている。