臨床の知とは何か

中村雄二郎 著『臨床の知』岩波新書

何年か前に買ったっきり積読(つんどく)してあった中村雄二郎著『臨床の知とは何か』(岩波新書)をようやく読んだ。

新書というライトなボリューム感から油断したけど、かなり歯ごたえのある本気度の高い学術書である。

内容は近代科学(科学の知)と臨床の知の対比が主要テーマになっている。

野口整体を実践する立場からすると、西洋医療と整体法の対比構造がほぼそのまま当てはまるので本著の内容は多くの示唆に富んでいた。

科学の知とは簡単に説明すると、次のようになる。近代科学における現実認識は<普遍性><論理性><客観性>という3原則を具えていることが求められる。これらを踏まえて得られた現実認識が科学の知である。

ここで<科学の知>を理解するために思い切った具体例を挙げるなら、次のようになる。

「カレーという食べ物を理解する」ために材料をはじめ物質的なデータから導き出して、その実体を追求していくのが<普遍性><論理性><客観性>の三つを兼ね備えた科学的な理解である。

対して「臨床の知」とは、言うまでもなく「食べる」ということに尽きる。食べると味覚という点で大変な情報量が瞬時に展開する。これが文字通り臨床の醍醐味である。

科学的な方法でカレーの分析・研究を100年やってもカレーの味は絶対にしない。百聞は一見に如かずという諺もあるように、文字や数値を使ってどんなにデータ化しても「食べる」という行為で得られる感覚には及ばないのである。

こう書くと科学の知がいかにも無意味で愚かしく見えるけれども、実際はそうとも言い切れない。

たしかにカレーを食べたら「おいしい」とか「辛い」とかは即座にわかるし、毎回材料を加減しつつ入れ替えをしていけばその都度味の検証とおいしさの追求もできる。

しかしその「味」という感覚は個人の主観に拠っている。まずお腹がすいていれば何を食べてもそこそこはおいしいだろうし、満腹なら同じものを食べてもうまくない。あるいは「激辛」という表現も個人の辛味に対する耐性度合によって異なるために客観性に乏しい。

そのため、得られた感覚を情報化して万人に説明するために、客観性をそなえた解説がなされることは十分役に立つのである。

例えば、カレー粉のグラム数や配合率、具材(人参何グラムを何々切りにする)を文字や数値にすることで、データ化してお互いに授受できる。これが客観性の便利さである。

では科学をベースにした近代文明の何が問題かというと、物事を理解しようとするうえで<普遍性><論理性><客観性>に「偏り過ぎた」場合である。

先の例から極端な言い方をすると、カレーを一度も食べたことのない人が文字でカレーの勉強をしてカレー屋をやる、というようなことが起こってくる。

「そんな馬鹿な事あるか」といわれるかもしれない。ところがこれを現代医療の例にすげ変えると、腰痛に一度もなったことのない医師が椎間板ヘルニアの手術をする、ということになる。これなら現代社会で十分行われていることであろう。

また教育現場なら、お米を一度も作ったことのない先生がお米の作り方を生徒に読んで教える。アメリカに行ったことのない先生が、アメリカとオーストラリアと日本の国土の違いを説明する。

こういうことが当たり前、としてまかり通っているのが科学をベースにした文明国の実態である。

一つ一つ挙げていくとあまり大きな問題に発展しないことが多いけれども、このような態度は時に近代科学文明の大きな陥穽となって私たちを予想外の結果に導くことがあるのだ。

例えば「新薬」と呼ばれるものの中には、使ってみて初めて分かる副作用がある。比較的記憶に新しいものとしてはタミフルと異常行動(飛び降り・転落)の関連性などが思い出される。

この件については関連を証拠付ける要素が検出されず(そもそも適切な検証がなされたのか不明であるが)現在もうやむやのままである。

科学的な研究というのは一見して公平性を匂わせているものの、実際は研究に携わる人の社会的な立場や研究にかけられる費用、また結果に求められる緊急性やニーズの規模などが複雑に絡み合って、得られた結果を見る目にバイアスがかかりやすいのである。

先の例でいえば、タミフルの異常行動で事故死した人が少ない場合、その研究に興味を抱く人も少なくなる。また研究で得られた結果に対して費用面の見返りもさほど見込めない。

さらには、そのような重要な副作用があることを後から認めてしまった場合、十分な検証をせずに流布した当局の責任が問われかねないために、検証に対してはどうしても消極的にならざるを得ない、といったことが考えられる。

このような科学文明の陥穽を鋭く見つめ、補うものとして<臨床の知>という立場に可能性が見出されているのだ。

カレーを作るなら、過去のデータに頼って作るのではなく、味見をしながら「うまいか、まずいか」ということから出発して、その内容を参究していこう、というのが臨床の立場である。

新薬の効果でいえば、あらかじめ建てられた仮説や学説からまったく独立したまっさらな目で臨床の結果を見つめ、受け入れることである。

となれば、いきおい近代科学と<臨床の知>は対立が起こりやすい。しかしながら、科学文明の見えざる弊と限界を乗り越えるためには、それぞれの立場を越えた協力関係が求められるのである。

これについて『臨床の知とは何か』の筆者、中村雄二郎は次のように提言する。

…<臨床の知>の主導下に科学的医学の諸成果を思い切って取捨選択し、再組織することであろう。医学・医療において高度化した科学や技術の自己目的化や自己満足は、<臨床の知>によって初めてチェックすることができるからである。また、それがそのまま、医療を、商業主義と結びついた科学や技術による奴隷状態から、人間の手に、生活世界に取り戻すことになるのである。

と、以上の箇所に簡潔に纏められているのだ。

この本が出版されたのは1992年のことなので、かれこれ30年近く前になる。

にもかかわらず依然として科学文明の陥穽は至る所に存在し、我々を真実から遠ざけていることは少なくない。

このような構図をよく吟味したうえで、私たちは科学文明の落とし穴に慎重にならねばならないのである。

客観から出発した科学はその理論の実践から得られた結果に謙虚である必要があるし、臨床から得た体験知はその確かさをより堅固なものとするために<普遍性><論理性><客観性>の目に堂々と晒される必要がある。

言うまでもなく整体法は後者に寄っている。野口整体は創始者の真意がよく伝わらず、代替療法という分野に括られ何かと疑わしい目で見られることも少なくない。

他でもない、<客観性>の乏しさがその主な原因と言えよう。

整体に関わるものとしては、近代科学と<臨床の知>の対比構造を理解した上で、<論理性>を見出しながら公共性を持たせていくことが今後の重要な責務ではないかと考えている。

内的要因

近所の緑道に生えていたきのこ。すぐ近くに似たような木があるけれども、これには全く根付いていない。同種のきのこが生えているのは左側の一本だけである。

おそらく菌類だから常に無数の胞子を飛ばしているはずである。胞子が付いたところから順次根を張ったらあたり一面に群生するだろうに、考える頭のないきのこでも繁殖する木をちゃんと選んでいるのだ。

これは他の細菌やウィルスにも同じことがいえる。

ウィルスが増えていくメカニズムは菌が繁殖するのとだいぶ違うらしいけれども、同じウィルスを保有していても増殖しやすい身体とそうでないものがあるのは事実である。

前者は病気による刷新効果が必要な鈍った身体※であり、後者は現時点で適応の行き届いた平衡状態にあることを物語っている。このような場合、体の中にウィルスを増殖拡散させない「何か」が存在すると言えそうである。

※野口整体では病気は鈍った感受性を正常化し、身体の弾力を取り戻す自然良能とみなす。

コッホが微生物を「病原体」とみなして以来、衛生研究の対称はもっぱら細菌やウィルスの研究といった外的要因の解明と除去に傾倒していった。

そのせいかはわからないけれども、病気の研究というと外から来る細菌やウィルスの研究が主で、内的要因に対する考察は余りなされていないように思われる。

「免疫」についてはある程度研究されているようだが、その免疫システムの鍵となる「何か」は依然として漠としたブラックボックスのままなのである。

これとは対照的に、整体は身体に起きた事象の内的要因を明らかにしよう考えてきた。整体法を生んだ野口晴哉はこの内的要因にこだわった代表的な人物の一人だろう。その結果として「潜在意識」という問題に行き着いたのだ。

野口の著した『風邪の効用』には「空想は体に現れる」という一節がある。

この空想を方向付ける要素が潜在意識の中にある、というのが野口が独自の研究によって明らかにした「人間」である。

木には意識はない(と考えられる)ために元々の物質的な構成要素に従って受動的に変化していくのみである。これに対して、人間の場合は空想によって身体は能動的に変化していく。

その変わっていく中にも裡から自発的に変わっていくものと、外からの刺激によって変えられるものがある。

例えば言葉だけでも顔色が良くなったり悪くなったりする。一通のメールで内容によっては血圧が変わる。あるいは食欲が増したり、逆になくなったりする。

「その何故そうなるのか?」ということを科学的に解明しようとすると大変な研究が必要になるだろうし、いくら研究しても結局何故そうなるのかは判らないかもしれない。

野口は人が健康に生きていくためにはその「判らないもの」の方が、栄養や衛生の知識よりも大きな働きを持っているという。

その判らない漠としたものが行動の元になっている。そこに潜在意識が内的な要因として深く関わっている、というのだ。

この内的要因の探求と方向付けが整体の技術の核心といっていいだろう。

一方で細菌学から出発した衛生法の辿り着いた答えが、外的要因を排除するための「マスクと距離」なのだ。現在はこの対策のために相当な方が難儀しているし、このような現代医療の方向性に「何かおかしいのではないか」という感覚を抱いている人も少なくないはずだ。

野口は風邪の菌でも結核菌でも「身体に病気の要求がなければ発症しない」と自身の体験から語っている。

加えて病気をきちんと経過すると、身体の偏りが解消されるのだと説いているのだ。つまり病症自体が生体の平衡作用であることを直感的に見抜いたのである。だから肺炎が流行るには肺炎になる身体の人が増えている、という観点から個人を探求するのが整体の立処である。

「野口整体は西洋医療を全否定うんぬん・・」という意見を耳にしたことがあるけれども、このような評価は整体法の一面しか見なかったことによる誤解である。

整体と西洋医療は互いに否定したり批判し合うような対立関係ではなく、興味や関心の対象が別分野なだけである。いわば研究の棲み分けをしていると考えたらいいだろう。

整体は何処まで行っても特定の個人を主観的に見ていくことが全てで、その個人の研究から得られた体験の知は、余人に理解を求めてもなかなか難しい。「健康」といっても「病気」といっても整体の観察結果は客観性に乏しいのが難点である。

この主観的な体験知に客観性を持たせる努力が整体に関わる人間に求められるだろう。多くの人にこの「内的要因」を認知してもらえたら、コロナが収束せずとも世の中が少しは変わってくるのではないだろうか。

独立と責任

少し前のニュースになるけれども、小学五年生の男の子が体育の時間にマスクをつけて持久走をした直後に亡くなったというではないか。

責任追及の苦手な日本のことである。もしかしたら本件の責任の所在も宙に浮いたまま風化していくかもしれない。痛ましい事件に直面しながら「再発防止に努めたい」では済まないと思うのだが。

実際事件後にどういった話し合いが行われているのかは知らないけれども、どんな裁定が下ろうともご両親の気持ちはどうにもならないはずだ。

冷静に考えれば苦しくなったらマスクなど外せばいいだけの話である。しかしながら、社会情勢の無言の圧力を前にたったこれだけのことができなかったのかもしれない。

ひょいとつまんで口元から布一枚ずらせなかったことが生死を分けた、といっても過言ではないだろう。小5の児童に自己責任を匂わせるのは非道である。

ところでドイツではマスク着用義務に従わなければ罰金が定めれれているそうな。これはこれでちょっとおそろしい反面、責任の輪郭はくっきりする。その分だけ国民も軽快に行動できるかもしれない。

真実の追求よりも「協調性」が優先される日本に生きるなら、周りが何といっても「これはおかしいのではないか」と思ったら、自分の責任で論理的に考え、発言し行動できる力を子どもの内から養っておく必要があるのだろう。

現状の学校教育は協調性を学ぶことに重きを置いているようだから、自分で考え自分の責任で行動していく独立人を待ち望んでも難しいように思われる。

そうなると小さな子どもの命を守るのはやはり親の務めである。ただ単に周りがそういっているのだから…といって、曖昧な正義に流される生き方を見せていると、これからの世の中は思わぬ危険につながるかもしれない(思い返せば戦前・戦中からそうだったかもしれないが…)。

協調性はもちろん大事であるけれども、これのみの教育では片手落ちになるだろう。自由と独立、責任といったことも大人の一人一人がその意味を吟味して行動し、自らが範とならねば独立した人間は育たない。

子どもを導く前に大人自身の在り方を点検する必要をつよく感じた次第である。

今のいのち

営業時間短縮の影響で近所の居酒屋さんでも弁当を売るようになった。

ごはんメインのお弁当の他に自家製のカツサンドなんかも置いてある。いま飲食はどこも大変だろうけど、こちらもアイデア出しの苦労が伺える。

酷暑の迫る中弁当を買いながら「マスクが苦しそうですね」と言うと、「キツいです(笑)、テレビでやってたんですけど、ずっとマスクしてると免疫力落ちるらしいですね」との返答がかえってきた。

おそらくそうだろう。人間も自然の生き物である。だから自然の適応の仕組みからは免れ得ない。普段は常に雑菌が鼻や口から入ってくるために、この数を体の中で調整しながら個体の健康を保っているのだ。

こうした微生物の侵入がしばらく途絶えれば、雑菌の量を調整したり活用したりする力は自ずから退縮するかもしれない。

とはいえ、ふたたび免疫能力が必要な環境に浸れば再適応がはかられてその力は増してくるはずだ。

生き物はみな絶えず外界からの刺激に応じて変化するのだ。こうしてある種の「平衡状態」を保とうとする働きがある。

もう少し平たく言えば、いつでもどこでもバランスを取ろうとする働きがあるのだ。

このように考えていくと、飲食店の営業時間短縮もマスクの濫用も、大自然の一部である人間の思考が生み出した自然の産物ということになる。

いずれどこかでこの均衡が破れたら、状況は破綻してまた次の平衡状態に向かって流れていくだろう。

もとより生命の活動に出発地点もなければ目的地もない。腰をかけて留まっていられるような場所は何処にもない。

完全無欠の「今」という同次元をみんなで共有し生きているのだ。

頭で考えているうちはこの「今」を本当に味わうことはできない。本当は考える前をみんな生きている。

それにしてもあまりに人間は自分の力を見失い、自己を過小評価しているのではないか。頭が大きくなりすぎて現実認識がボケていると思う。

もっとまっさらな目で自分という活動体を自覚する必要があるのではないか。それも今この瞬間に。

舞岡公園

昨日はかねてより行きたかった舞岡公園へ。

公園というよりは山です(注意)という下記のサイトを参考に、妻と息子と三人で、ややしっかりめに装備を整えて出発しました。

舞岡公園:本気の登山道がブルーライン駅から徒歩15分…

戸塚駅からバスに乗って到着、歩きはじめると先ずは有名(?)な水車小屋が姿を現しました。こちらはもう使われてはいません。「中に入って回したいよ~」と息子。

さらに進んでいくと、ときどき体験もやっているという田んぼに着きました。カエルの鳴き声につかまって、どうにか見つけようとかんばります。

近くでたくさん声はするのに、どこを探してもとうとう姿は見えませんでした💦(泣)

途中からわたしも参戦しましたが、確かにすごい声がするのにまったく見つかりません…ホントどこ…。

舞岡公園

途中のベンチでお弁当を食べた後、同年代の子どもを見つけて遊びはじめます。

なかなか帰ろうとしません…。

バスの時間がせまってきたので、しかたなく帰るコールして帰路へ。

今日は時間の都合もあって平地を中心にまわって、本格的な登山道には入りませんでした。

自宅から一時間くらいで行ける本気度高めのハイキングコースコースです。しばらく定番になるかもしれません。

次回はその山の先にあるというアイスクリーム屋さん目指して、登山道にも挑戦したいと思います♪🙂

背く親

昨日の夕方、子どもといっしょに公園に行くと、ちょうどそこで4~7才くらいの姉妹が交代で縄跳びをして遊んでいた。はじめは夢中でやっていたけれど、そのうちにお姉ちゃんが「あや跳び」をした。するとすかさずお母さんが「すごいすごい!それはアヤトビって言うんだよ」と教えてあげた。

褒められたお姉ちゃんは今度は「アヤトビ」を成功させるためにやり始めた。ただ夢中でやっていた縄跳びに成功と失敗が生じ、そこに評価が加わった。

なかなかできなくて、イライラする。もう一回アヤトビをすると、お母さんは、「ちがうよ、それは交差跳び」、そこへお父さんまで加わって「今のはあや跳びにも交差跳びにもなっていない」と次々厳しい評価と注文を付け始めた。

そうこうする間に存在を忘れられそうになった妹が、「モウカワッテヨ!」と自分を主張しはじめた。当然である。お姉ちゃんはしぶしぶ交代する。「じゃあ5回ね!」と先に自分の自由を制限されたお姉ちゃんは、さっきまで自由に交代しながら一緒に遊んでいた妹に急に注文を付け始めた。

やっと通った要求に制限を付けられた妹は「ゴカイヤダ!カゾエナイデ!」と自分の自由を主張する。お父さんは「お姉ちゃんが貸してくれたんだから交代で遊びなさい、自分がやられたらイヤでしょ」と正しきを指導した。

ついさっきまで楽しかった同じ縄跳びが途端に詰まらくなった。嫌になり一人で遊具に行ってしまった。人間の要求は川水の流れと同じである。堰き止められれば、孤独になるとわかっても隙間を見つけて流れていく。

お姉ちゃんはアヤトビを再開するも、もう笑顔はない。それをお母さんは意に返すことなく、相変わらず「今のはちがうよ」とやっている。

お姉ちゃん「ちがうちがう、そういうこと言ってんじゃないの!」
お母さん「えっ私が教えてあげてんだけど」とついにはケンカが始まった。

読めばわかる通り、子どもの自発性と楽しみを奪ったのは親である。この場合は相手の求めない知識と正確さを押し売りしたためだ。何故そうまでして「アヤトビ」を正確に教えようとしたのか、私にはそれがわからない。

おそらくだが、この流れはここで終わらない。「正しさ」によって自分の自由と自発性を制限されたお姉ちゃんが妹にもそれをしたように、やがては学校の友達にも何かあるごとに「それはちがうよ、こう」とやり始めるかもしれない。

人間の表面の動きだけしか見ない人にこんな話をしても無駄だろう。せいぜい「親の親切に子どもが背いた」と思うかもしれないが、子どもの自然のこころに先に背いたのは親である。その根本には古くなったことによる感受性の鈍りと子どもに対する無理解がある。それが仲良く遊んでいた姉妹の中まで壊してしまった。

妹は姉が憎いと思ったかもしれないが、その背後に親の鈍感があるとは夢にも思わないだろう。その結果、本件でもっとも孤独を味わったのも妹である。しかしながら、考えてみるとこういうことは世の中にいくらでもあることではないか。

お互いがお互いの正義と自由をつつき合って息苦しい社会を作っていく土壌は、こんなところにもあるのではないかと思った。慎まなければならない。

いじめもまた然り。弱者を守るべしという頭の教育も結構だが、指導者層の視野狭窄と感受性の鈍りを見逃して、お仕着せの教育が奏功するとは思えない。子どものうちからこころの自然と感受性を守り育てていく体育の必要性ここにありと、改めて信を強くした次第である。

自然(じねん)モデル

心理学者の河合隼雄さんはカウンセラーの態度の理想の一つとして、「何もしないということに全力を挙げる」という言葉を残している。

カウンセリングの現場では、カウンセラーが教育的なアドバイスや助言を与えた場合よりも、クライエントの悩みを深く共有しながらも、「何もしないで自然の変化を待ったとき」の方がより豊かな結果にむすび付くことを度々経験されたためである。

このような心理療法の技法、とも言い難いような技法のことを、自らの著書『心理療法序説』の中で「自然(じねん)モデル」と名付けている。

前掲書の中に上のような図が示され、下に行くほど治療者の役割が薄まり、患者(クライエント)の意志や努力が要求されるようになる。そして自然モデルに至ると患者、治療者(クライエント、カウンセラー)としての役目や関係性も消失し、「目に見えない何か」に一切を任せるという宗教的な態度にもっとも近づく。

もともと日本には「果報は寝て待て」とか「棚からぼたもち」など、ぼんやりしていたら思わぬ僥倖に巡り合った、といった意味の諺がいくつもある。これは往時の日本人が自然(じねん)であることの恩恵を生活の知恵的に理解していたからとも思える。

これに反して近年は「科学的根拠」が好まれる風潮がつよまったせいか、効率化や合理性に偏り過ぎたために、自分の知った様々な理屈の狭間でかえって身動きが取れなくなってしまっているケースをよく見かける。

もちろん「人事を尽くして天命を待つ」と古語にもあるように、目の前に置かれた自分の務めを誠実に果たしていくことは大切である。しかしながら物事の全体が円滑に進んでいくためにはこれだけでは不十分であって、やはり「自然の流れ」という目に見えない大きな力による面を無視することはできないのである。

冒頭の「何もしないことに全力を挙げる」という言葉は、その目に見えない大きな力を最大限に活用するための積極性と受動性を兼ね備えた態度ともいえる。

一方で、野口整体の方では健康に至る方法の一つに「ポカンとして体の要求に任せる」などといって、やはり「自然(じねん)」の力を活用する態度を重んじている。

活元運動も一見すると非合理で前近代的な迷信のようにも思われがちだが、上に述べたような背景をよく理解すると、心理療法の「自然(じねん)モデル」とも相通じる、古今不易の「合理的な」運動であることが理解されるだろう。

心理療法では身体について言及されることはさほどないが、整体法では頭をポカンとさせることは、身体全体の条件をともなった心の状態であると捉えている。

整体操法が必要なのもそのためで、全身の筋がゆるんでこないと頭の働きは休まらない。つまり体に凝りがあるうちは「ポカン」とはならないのである。

何であれ、アプローチの仕方が違うだけで生命の最良の状態を自然(じねん)とする考え方は同じである。

一般的な教育現場や治療、臨床の現場において、このような自然(じねん)の果している役割は見えづらい。加えて数値化に代表されるような、可視化や見える化を重視する現代においてはなおさら死角になりやすいのだが、一度この力に目覚めた人は自分自身が見えない大きな流れと繋がりうる可能性に満ちた存在であることが自覚されるだろう。

この自然モデルの具体的な方法論が整体における「愉気」や「活元運動」ともいえる。どちらも効果を疑う人ほど潜在的な需要はある。いずれも努力して身に着けるものではなく、目が開くと、自ずからそのようになっていく。自然はいつも生命と共にあるのだ。

粘菌

粘菌昨年の梅雨のこと、軒先にあるライラックの切り株に見なれぬ光景を発見。粘菌である。

粘菌は寒暑風湿に応じて、文字通り千変万化する原始的な生命体である。植物とも動物とも分類しきれず、キノコのような形から胞子となって舞い飛んだかと思えば、アメーバのようにもなって微生物を捕食することもある。

おそらく朽ちかけたライラックの切り株を見つけて(一体どうやって⁉)飛来してきたものと思われる。

うまくしたもので隣で元気に葉をつけた株には見向きもしない。そして数日の後には雨季の終焉を予期したかのように忽然と姿を消した。

生命とはこういうものさ、そう言わんばかりに自然の秩序を無心に語り、去って行ったように感じた。

「音もなく香もなく常に天地(あめつち)は書かざる経をくりかへしつつ」とい詠じた二宮尊徳翁の心も、里山で暮らし自然の妙機に触れることで紡ぎだされた、裡なる自然の叫びだったのではないだろうか。

その自然はいまも我々の裡に宿っている。だからこそ生きているものは息も脈も環境に応じて否応なしに変化する。その自然を見失い、ただ生きるということに戸惑い悩む人多し。斯くしてこれ以上の大脳進化の必要ありや、なしや。

ノアの箱舟

ノアのはこ船地球のすべての生き物には「適応」という力が具わっている。これによって必要な力は伸び、不要な力は失われていく。髭が剃るたびに濃くなり、歩けば脚が太くなるのもこの適応の産物である。

病菌を殺せ罹患者を近づけるなと、外から来るストレスを忌避し逃げ惑う間にも、この適応作用は刻々と働いていることを忘れてはならない。病気を遠ざければ、これを活かし共生する力もどんどん委縮退行していく。

一方人間によって過酷な環境にさらされた病菌は、同じくこの適応作用によって変異と強化を繰り返しつつ、逞しくその活動領域を保持していく。

効いていたはずの薬が効かなくなり、常用者の使用量が増え、絶えず新薬の開発が希求される要因は「適応」を見落としているためである。

人間の衛生を目的とした行為が、自ら進んで武装解除し種の弱体化と滅亡への道を歩んでいることに早く気づくべきだ。

コロナ禍という禍(わざわい)が実在するかは定かでないが、これに怯えることなく進んで生命をストレスに晒していけば、禍も転じてノアの箱舟になるやもしれない。

活元運動を真面目に行う人は、箱舟はもともと自分の中にあったことにやがて気がつくだろう。自分の力を自覚すると、洪水のさ中でも平素と変わらず浮かんでいることは決して難しいことではない。

潜在意識と氷山

潜在意識と氷山こころの全体構造はよく氷山に例えられる。
野口整体では海面から出ている部分が現在意識、海中に隠れた部分が潜在意識、そしてそれらの大本となる海水が無意識であると表現する。

ユング心理学では呼び方が変って、先ほどの順番で行くと意識、個人的無意識、集合的無意識になる。

いずれも意識の狭さと限界性を指摘し、無意識の広大さと可能性を説いている。野口整体で「頭をポカンとさせる」というのも、ユングと同じ無意識に対する信頼が基礎にある。

活元運動も坐禅も意識の忙しい現代にこそ潜在需要に満ちている。ただし潜在しているために、その掘り起しから整体指導者の仕事は始まっている。

みんな知識と情報を欲しがっているが、知識では解決しないことを知って欲しい。