野の医療

河合香吏,1987『野の医療 ー 牧畜民チャムスの身体世界』東京大学出版会

東アフリカ、ケニアに住むチャムスという牧畜民の医療(医学)を通じて現地の人々の身体観にせまろうとしたフィールドワークの記録と考察の書。

『野の医療…』というタイトルから野口整体の考え方に何らかの刺激を提供してくれるのではないかと期待して読んだ。

読む前の予想を裏切ったのは、彼らが様々な疾病現象に対して非常に薬(薬草類)を好んで用いるところであった。

当たり前だが日本の都市のように救急車と病院に取り囲まれた環境ではないので、彼らの病や怪我に対する認識は大きく異なることが想像される。

怪我をしても整形外科に行けばいい、入院して手術をすればいいという甘えはまずないだろう。

そのような環境下で、科学とは縁遠い文化に属するチャムスの人々の病気や怪我への対処は、個々の経験を重視した合理的な方法を数多く有している。

そして病気に対する眼差しは西洋医学のそれとは異なり、あくまで自分自身の経験として病気は自覚されるものであって、客観的に分析され理解されるものではない。

具体的に言えば、胃がしくしく痛む、頭がずきずき痛い、といったしくしく、ずきずきという感覚から先ず出発して、のちに客観を働かせるのである。

現代の日本のように、自覚症状のない人を捕まえて検査し重箱の隅でも突くように「異常」を探して認めさせるようなことはない。

そして身体の変化の一過程として病気があるのであって、これを「負」のものとして捉えてはいないように思われる、と筆者はいう。

その原因の一つとして病気と死が直線的に結び付けられていない、というチャムスの傷病観について述べられている。

「死」というものは病気の有無とは別の系で考えられており、結果的に病気と死が重なり合うことがあっても、そこに因果性を見出していないように見えるのだという。

死は体が朽ちたり、破壊されることで訪れる即物的な現象ではなく、そうした物質的な理屈を超えた「何か」によって統制、もしくは支配されていると認識されているのかもしれない。

整体法においても「個体としての生命は、死ぬときに死ぬ」といったような、ある種因果律を超越したような達観がある。

現実に結核を乗り越える身体もあるし、風邪に耐えられない身体もある。また、癌の手術を何度も受けながら10年以上生きている場合もあるし、流感に一度罹って死んでしまうケースもある。

もっとも急変や急死などというのは、平素人間をモノとして観ているからそう見えるだけで、もっと丁寧に観察しておれば、その体がいよいよ鈍く硬直し死体に近くなっていることくらいはわかるはずなのだが。

ともかく病気と死は無関係とは言えないが、特定の病気が必ず死に至るとはいえず、病症の母体となっている「身体の状態」を見ずして人の生死を測ることは困難を極める。

整体ではこの「生きて動いて絶えず変化する身体」を「観察する」ことが技術の9割以上を占める。観察がある域に達すれば「死ぬか生きるか」ということがまず判る。「死なない」ということが判れば、相手の潜在体力を信じて静かに経過を待てる、これをもって技術の第一としたのである。

チャムスの「医」においてもそれに類似した死生観を匂わせる。そして病気というものを臨床経験と主観を重視して見つめていく態度にも親しみを感じる。

しかしながら整体法がやはり異質だと思うのは、病症に対して自然秩序の合目的性を見出し、これを合理的に活用する道を力強く開拓していったことだろう。

このことは『風邪の効用』という一著に集約されてるが、あれは風邪の対処法を纏めた本ではなく、東洋思想という水源上に結晶化した一つの哲学なのだ。

当然だがそれぞれが浴している文化が違うので、チャムスの医と整体法の優劣を安易に論じることはできない。

ただ日本の現状に照らして考えるならば、自然科学という一見強固なパラダイムの中で行われている医療でも、歴史的、地域的な視野を広くとればそれはごく一部なのだ、ということは知っておいて損はない。

現代において科学を疑う、というのはともすれば異常ともみなされる態度だが、チャムスの医や整体法のような主観経験を母体とする臨床の知というのは自然科学の死角になりやすいのである。

このような死角に生じた需要によって整体法は生まれ、今日まで命脈を保ってきたと言っても過言ではない。

野口整体と西洋医療という二つだととかく対置構造になりやすいが、『野の医療…』を読んだことでその閉ざされた構図にある種の広がりを感じることができた。

「人間の多様性」というのを改めて感じたし、人間を見る目の柔軟性も刺激されたように思う。

多様性と言えば、日本とケニアを往復しながら時に現地で年を跨ぐなどして12年もかけて本書を執筆した筆者の執念、というか興味の持続力には人間の感受性の違いというものをまざまざと感じる。

何にしてもこのフィールドワークの長編記録は大変に貴重な資料だ。一冊の本を読んで筆者にお礼、というのもあまり聞かないけれども女性でありながらこのような体験的考察を書きあげた著者に対し畏敬と感謝の念を禁じ得ない。

知識か「情報」か

鈴木哲也・高瀬桃子 著『学術書を書く』を読んだ。学術書を書いて出版するまでの道のりを懇切丁寧に纏めてある一冊。

現代はインターネットの普及によって情報の発信や受け取り、また公開された内容の修正や改変のスピードは格段に上がった。

このような状況下にあって出版から販売に至るまで多くの時間と労力を要する書物を出すことに果たして意義があるのだろうか、という考察が本書の冒頭でなされている。

本稿の見出しの「知識か「情報」か」、というのは本書につかわれた見出しの一つである。知識、情報、この二つの差異はいかなるものなのだろうか。

筆者によれば知識といった場合、そこには個人に染み付いた身体性を伴う知恵としての働きが含まれるという。

確かに知識を身に着けるという表現はあっても、情報は身に着けるとは言わない。

情報という言葉は必要に応じて拾ったり、人に渡したりできる手軽さを感じさる。つまりは情報とは人間と遊離した概念といえそうである。

現代は「情報の氾濫」などという言葉が定着して久しいけれども、確かに携帯電話などデバイスの発達のおかげで情報はどこにいてもいくらでも手に入る。

生活上の利便性という点では優れているが、それがそのまま心の安定につながるかというとそうとも言えないだろう。

「情報に振り回される」という表現もあるくらい、情報があってもそれを判断し取捨選択するちからがシッカリしていないと、かえって余分な不安や焦燥に駆られたり、イライラしたりせねばならない。

そういう点で、情報に自在にアクセスできるという状態と、知識が身についている、ということは大きく違うように思われる。

情報の取得に比して、知識を身に着けるには相応の時間や労力を要するのだ。

昔の大学生は自分の専門外の本でも一般教養として何日もかけて読んだそうだが、現代の学生は一か月に一時間も本を読まない人がいるという。

私自身どうだったか考えると、一か月の総読書時間が5時間を割っている月もざらにあったかもしれない…。当然一般教養は身についていない。

加えて、今やレポートや論文の提出もネットで拾った情報のつぎはぎで通ってしまいかねない世の中である。

こうなると一冊の本を辞書を引き引き読み進め、ガリゴリと咀嚼して知識を身に着ける力など到底養われないだろう。

その結果、本と言えば流動食みたいな軽いハウツー本や名言集しか手に取らず、ネット上で出所不明な情報ばかりを読みあさる人は増えていく。これでは情報を管理する母体としての強固な知識が養われる見込みはない。

これは非常に危うい状態である。

そういう考察から、結論として学術書を出版することはもちろん、読むことにも大いに意義があるのだ。

途中から本の内容か自分の主張か混ざり合って分からなくなってしまったけれども、現状のコロナがどうこう…といっている世相にあって一点思うところがある。

ネットで取得する情報には大きな陥穽があるのだ。

それは何かというと、ネットで情報収集した場合は自分にとって好ましい情報や都合の良い内容に偏りやすいのである。

例えばワクチンの成否、功罪という点を例に挙げると、肯定派の人は最初から肯定的な情報を目掛けて集め読む傾向に走りやすい。そして検索エンジンの性質上このようなことが可能なのである。途中で否定的な見解を見つけても、「これはおかしい(気に入らない)」と目をつぶって消してしまえばそれで済んでしまう。

当然だが否定派の人もまた同じで、はじめから否定的な見解を呈する発信者やコミュニティのサイトをよりどって元々の自分の見解を強化するための材料確保に走りやすい。

このような態度では自分の見解に発展的な広がりが生じる余地はない。選り好みした情報の取捨選択はもはや「学び」とは呼べないだろう。

ネットが普及する以前の、つまり本の時代だったらこのような問題は生じにくい。

紙の出版となると雑誌を一冊出すのでも「確かな人」でなければ寄稿はできない。発刊される際には、どこの誰が、いつ書いたものか、くらいは最低限明かになる。

単行本の出版となるとさらに厳しい審査の目をくぐらなければならない。学術書ともなれば出版の前に繰り返し査読が行われるし、出版された後には同業の専門家たちによる点検と批評を受けることになる。

このような経緯を経てなお増刷再版されて生き残っていくためには、一つの主張を述べるにも、いちいちその論拠を明らかにし着実に歩を進めなければならないのである。

先のワクチンの是非について考えるなら、スマホを手放して図書館に行って調べるとなるとワクチンに関する様々な本の背表紙に出会うことになる。

気になるタイトルのものを手に取って、目次を見ると自分が予測していたものを大きく飛び越えた見出しがいくつも出てくるだろう。

そこから興味の湧いた本を数冊読むことで、自分が要求していた情報の二回り三回り外周のものまでが獲得されることになる。

これによりワクチンは是か非かとしか頭になかった人でも、否定と肯定を包括する大きな知識に触れることができる。

いわゆる弁証法の正・反・合というプロセスもここから生じる。

つまり一旦は自分の考えを否定する見解に触れ、抵抗しながらも咀嚼し、消化、そして受容を経ることをもって私は「学び」と考えたいのである。

そのためには本の存在は不可欠であるし、むしろ今こそ本が見直されるべきだとも思う。

言っておきながら私はそこまで本を読んでもいないのだけれど、『学術書を書く』を読むと一冊の学術書が出るまでのさまざまな工程に触れて、これまで読んできた本のありがたみが増した次第である。

ちなみに続編の『学術書を読む』には、学術書を読むにあたって何を読んだらよいのかという本の選定の方法、そして読み方についても詳述されている。

忙しくて本など読む暇がないという人も多いかもしれないが、端末を開く時間をちょこちょこ集めてれば一日一時間、30分くらいは読書にまわせるのではないだろうか。

かく言うこの記事がブログであるというのが皮肉なのだが…、時にはスマホを置いて、本の世界に出かけてみるのもいいのではないだろうか。

いぼ

子ども(6才)の右手の甲にいぼができた。だいたい高さが2mm弱、直径は3mmくらい。

いつからあったのかちゃんとは思い出せないけれども、小学校に上がってしばらくたった頃にはできていたと思う。

医学的にはいぼはウィルス感染でなるらしいが、どうも見ていると捻じれ型(8種)の若い身体にできやすい。

わたしも10代のころはよくいぼができていたし、妻もかつてはあったそうだ。二人とも押しも押されぬ捻じれである。

ちなみにヨクイニンというハト麦から作る漢方薬を飲むといぼは2~3週間でとれる。

さてこのいぼだが、子どもは全く気にする様子もない。

親も気にせず放っておいたら、先日血を吹いて剥がれかけたので子どもがそれを見て泣いてしまった。プラプラしているのを爪切りで切ったらもうそれっきりなくなってしまったのだ。

医学書によるといぼのウィルスに免疫ができると、枯れたようになって取れてしまうらしい。

なんで今かなあと思うと、思い当たるのは夏休みだ。毎日学童に行って遊んで帰って、ゲームをやって、日々楽しく過ごしているみたいだ。

子どもは大人よりもずっと、感情と体が直結してるのだ。

面白くて楽しければそれが何よりの治療である。

現代医療は人間を物質の方から研究するので病巣は物理的に切除するか、薬を与えて科学的に変質させようとする。

しかし外から体をこねていじって形を変えたからといって、病気を作った運動系の癖や心理的な傾向がそのままであれば当然再発を繰り返す。

治療ということを本当に行おうとしたら、人間の中身を切り替えるということが要求されるのだ。

まあ今回は狙ってそうしたわけではないけれども、「何もしないで」いたら自然とそうなった。

もしいぼを人為的にいじったとしたらそれでも取れたかもしれない。けれどもはたしてそれを「治った」とか「治した」といっていいのだろうか。疑問が残る。

身体がひとりでに動いて治ったものだけを「治った」というべきで、それ以外はただ観測者の目を誤魔化しているにすぎない、と私は思うのだ。

ずいぶんとこまかい話のようだが、整体を身に修めるものとしてこれは重要な視点である。

自ら治る健全な身体を育むか、偏った身体を放置したまま外から治す方法を考えるか。

後者は泥棒を捕まえてから縄をなうようなもので、勘のいい人なら前者を選ぶ。

しかしまあ現実に整体はマイノリティなのだから、まずは勘のよく働く人間に育つような教育が必要なのだろう。

ところが今度はそういう教育の要求が起こらないことには指導者も教えることができない。だから結局は少数に留まる。これが世にいう狭き門なのかなと思う。

科学的であるために

あるプロ野球選手がワクチンを打った後に様態が急変、後に亡くなったというニュースを目にした。目にした、というか妻から聞いたのだが。

亡くなる前に一度様態急変のところで話は聞いていたけど、内心「どうなるのかなあ」と思いつつ後は忘れていた。

公式発表では「ワクチンとの因果関係は不明」とある。さすがに今回は「それでもワクチンは打ちましょう」という医大教授の追記はどこを探しても見当たらない。確かな根拠があるなら何があろうと載せればいいのに。

今回のワクチンについては随分いろんなことが言われているけれども、実際私の周辺の人たちはというとほとんどが「打つ派」だ。

私はワクチンの是非を言える立場ではないのだが、本件に関しては不確定要素が多い、という印象だけはつよく持っている。そもそも何とかワクチンといった場合に、それがどういう根拠で効能があるのか、調べてから受ける人は皆無に等しい。科学信仰の強固さが垣間見える。

そもそもがガラス管やネズミの体内で試した結果を人間に適用する、という従来の構図に私は信を置いていない。科学を神様よりも深く信奉している現代人の多くがなぜこれを受け入れられるのか、平素から不思議に思っているのだ。

生命は複雑だ。ある刺激を与えたら、そののちどのような反応をするか、予測することは極めてむずかしい。予測がつくのは限定された部位や時間に限ったことで、視野を巨視的に広げればそれだけ不確定さはさらに増していく。

「ここまではわかっている」「ここから先は未知である」「さて、今回あなたはどちらを選ぶか」といったら、これこそが科学的であり民主主義である。供給する側がこうした公正かつ客観的な態度を具えていれば、こちらもその合理性に賛意を惜しむ理由はない。

実験室から出てきたものだから妙な物のはずがないと科学を妄信したらそれはすでに似非科学であり、前近代的迷信である。

現代は科学的論理に支配されているのだから、科学に関する洞察と理解を怠ると自ら命を危険にさらすことにもなりかねない。本当に科学的であるためには、常に自分の眼を開いて自分の責任で事実の追求を行う態度を忘れてはならない。

人生ゲーム

母の一周忌で実家に家族が集まった時に人生ゲームをやった。懐かし過ぎる。

子どものころ遊んでいたこのボードゲームの王様も2021年8月現在で7代目になっているではないか。

職業選択の中にフリーターがあったり、進むのにつれて就職(転職)のマスがあったりして、なかなか時代性を反映していて面白い。

ゴールの一歩手前で火星に行くというマスがあるのは笑えるような笑えないようなギャグだけれども、なんだかんだよくできているなあと思った。

普段はipadでゲームアプリばかりやっている6歳の息子も、この日は一緒にこの前衛的なアナログゲームを十二分に楽しんだのだった。

しかしまあ勝敗の要素がゴール時の総資産という点は昭和の高度経済成長期の名残りを感じさせる。

平成の後期辺りからだろうか、お金は幸福の必要条件であっても十分条件ではなくなった。

先月の七夕の時に見た小学生の願い事も「大金持ちになりたい」なんて書いているのは低学年までで、それより年齢があがると家族の幸せや世の中の平和、安寧を願っているものが多かった。

衣食足りて礼節を知るという言葉が示すように、経済的に豊かになったおかげで求めるものも唯物主義から遊離してきているようだ。

だからといって何を求めたらいいのか、というとそれはそれで戸惑う。丁寧に調べたわけではないが、現代なら「何も求めていない」「今が一番大事(今が楽しければいい)」という人も存外いるではないか。

カウンセリングをしていると「中年の危機」の相談に見える方の内容は「何もする気がしない」あるいは「何をしたらいいのかわからない」という悩みに集約されることが多い。

やった人でないとわからないけども、これはなかなかきつい。

仕事はするものだ、と教えられて育ってきたものがふと立ち止まって自分の職業的存在価値を問い直してみると価値らしいものが見当たらない、意義を感じられないということがある日突然やってくる。

一所懸命に足掻いても「その時」が来るまではどうにもならないのである。

幸いにして人生ゲームは順番さえ待っていればルーレットを廻してコマを進められる。そして行った先で何があるかはその時が来るまでわからない。

実のところ本物の人生もこれに近い。生きている限り常に予想をはるかに超えた現実に日々出会っていく。

こういうものを仏教では「縁」とか「因縁」とかいったりしている。この偶然性を十分に味わう力があれば人生がつまらないなんて言っている暇はないのだが、なんだろう、そういう人生を味わう味覚が一時的に麻痺することがあるのだろうか。

しかしまあ、待っていればどこかに流れ着き、流れ着いた先が今日の〔今〕なのである。

人生ゲームをやりながら、人生というゲームのコマである今の自分をもう一人の自分が見ていた、みたいな話になった。

臨床の知とは何か

中村雄二郎 著『臨床の知』岩波新書

何年か前に買ったっきり積読(つんどく)してあった中村雄二郎著『臨床の知とは何か』(岩波新書)をようやく読んだ。

新書というライトなボリューム感から油断したが、かなり歯ごたえのある本気度の高い学術書である。

内容は近代科学(科学の知)と臨床の知の対比が主要テーマになっている。

野口整体を実践する立場からすると、西洋医療と整体法の対比構造がほぼそのまま当てはまるので本著の内容は多くの重要な示唆に富んでいた。

科学の知とは簡単に説明すると、次のようになる。近代科学における現実認識は<普遍性><論理性><客観性>という3原則を具えていることが求められる。これらを踏まえて得られた現実認識が科学の知である。

ここで<科学の知>を理解するために思い切った具体例を挙げるなら、次のようになる。

「カレーという食べ物を理解する」ために材料をはじめ物質的なデータから導き出して、その実体を追求していくのが<普遍性><論理性><客観性>の三つを兼ね備えた科学的な理解である。

対して「臨床の知」とは、言うまでもなく「食べる」ということに尽きる。食べると味覚という点で大変な情報量が瞬時に展開する。これが文字通り臨床の醍醐味である。

科学的な方法でカレーの分析・研究を100年やってもカレーの味は絶対にしない。百聞は一見に如かずという諺もあるように、文字や数値を使ってどんなにデータ化しても「食べる」という行為で得られる感覚には及ばないのである。

こう書くと科学の知がいかにも無意味で愚かしく見えるけれども、実際はそうとも言い切れない。

たしかにカレーを食べたら「おいしい」とか「辛い」とかは即座にわかるし、毎回材料を加減しつつ入れ替えをしていけばその都度味の検証とおいしさの追求もできる。

しかしその「味」という感覚は個人の主観に拠っている。まずお腹がすいていれば何を食べてもそこそこはおいしいだろうし、満腹なら同じものを食べてもうまくない。あるいは「激辛」という表現も個人の辛味に対する耐性度合によって異なるために客観性に乏しい。

そのため、得られた感覚を情報化して万人に説明するために、客観性をそなえた解説がなされることは十分役に立つのである。

例えば、カレー粉のグラム数や配合率、具材(人参何グラムを何々切りにする)を文字や数値にすることで、データ化してお互いに授受できる。これが客観性の便利さである。

では科学をベースにした近代文明の何が問題かというと、物事を理解しようとするうえで<普遍性><論理性><客観性>に「偏り過ぎた」場合である。

先の例から極端な言い方をすると、カレーを一度も食べたことのない人が文字でカレーの勉強をしてカレー屋をやる、というようなことが起こってくる。

「そんな馬鹿な事あるか」といわれるかもしれない。ところがこれを現代医療の例に差し替えると、腰痛に一度もなったことのない医師が椎間板ヘルニアの手術をする、ということになる。これなら現代社会で十分行われていることであろう。

また教育現場なら、お米を一度も作ったことのない先生がお米の作り方を生徒に読んで教える。アメリカに行ったことのない先生が、アメリカとオーストラリアと日本の国土の違いを説明する。

こういうことが当たり前、としてまかり通っているのが科学をベースにした文明国の実態である。

一つ一つ挙げていくとあまり大きな問題に発展しないことが多いけれども、このような態度は時に近代科学文明の大きな陥穽となって私たちを予想外の結果に導くことがあるのだ。

例えば「新薬」と呼ばれるものの中には、使ってみて初めて分かる副作用がある。比較的記憶に新しいものとしてはタミフルと異常行動(飛び降り・転落)の関連性などが思い出される。

この件については関連を証拠付ける要素が検出されず(そもそも適切な検証がなされたのか不明であるが)現在もうやむやのままである。

科学的な研究というのは一見して公平性を匂わせているものの、実際は研究に携わる人の社会的な立場や研究にかけられる費用、また結果に求められる緊急性やニーズの規模などが複雑に絡み合って、得られた結果を見る目にバイアスがかかりやすいのである。

先の例でいえば、タミフルの異常行動で事故死した人が少ない場合、その研究に興味を抱く人も少なくなる。そうなると当然ながら研究で得られた結果に対して費用面の見返りもさほど見込めない。

さらには、そのような重要な副作用があることを後から認めてしまった場合、十分な検証をせずに流布した当局の責任が問われかねないのである。そのため検証に対してはどうしても消極的にならざるを得ない、といったことが考えられる。

このような科学文明の陥穽を鋭く見つめ補うものとして、前掲書では<臨床の知>という立場に可能性が見出し着目しているのだ。

カレーを作るなら、過去のデータに頼って作るのではなく、味見をしながら「うまいか、まずいか」ということから出発して、その内容を参究していこう、というのが臨床の立場である。

新薬の効果でいえば、あらかじめ建てられた仮説や学説からまったく独立したまっさらな目で臨床の結果を見つめ、受け入れることである。

となれば、いきおい近代科学と<臨床の知>は対立が起こりやすい。しかしながら、科学文明の見えざる弊と限界を乗り越えるためには、それぞれの立場を越えた協力関係が求められるのである。

これについて『臨床の知とは何か』の筆者、中村雄二郎は次のように提言する。

…<臨床の知>の主導下に科学的医学の諸成果を思い切って取捨選択し、再組織することであろう。医学・医療において高度化した科学や技術の自己目的化や自己満足は、<臨床の知>によって初めてチェックすることができるからである。また、それがそのまま、医療を、商業主義と結びついた科学や技術による奴隷状態から、人間の手に、生活世界に取り戻すことになるのである。

と、以上の箇所に簡潔に纏められているのだ。

この本が出版されたのは1992年のことなので、かれこれ30年近く前になる。

にもかかわらず依然として科学文明の陥穽は至る所に存在し、我々を真実から遠ざけていることは少なくない。

このような構図をよく吟味したうえで、私たちは科学文明の落とし穴に慎重にならねばならないのである。

客観から出発した科学はその理論の実践から得られた結果に謙虚である必要があるし、臨床から得た体験知はその確かさをより堅固なものとするために<普遍性><論理性><客観性>の目に堂々と晒される必要がある。

言うまでもな整体法は後者に寄っている。野口整体は創始者の真意がよく伝わらず、代替療法という分野に括られ何かと疑わしい目で見られることも少なくない。

他でもない<客観性>の乏しさがその主な原因と言えよう。

整体に関わる者としては、近代科学と<臨床の知>の対比構造を理解した上で、<論理性>を見出しながら公共性を付与していくことが今後の重要な課題ではないかと考えている。

内的要因

近所の緑道に生えていたきのこ。すぐ近くに似たような木があるけれども、これには全く根付いていない。同種のきのこが生えているのは左側の一本だけである。

おそらく菌類だから常に無数の胞子を飛ばしているはずである。胞子が付いたところから順次根を張ったらあたり一面に群生するだろうに、考える頭のないきのこでも繁殖する木をちゃんと選んでいるのだ。

これは他の細菌やウィルスにも同じことがいえる。

ウィルスが増えていくメカニズムは菌が繁殖するのとだいぶ違うらしいけれども、同じウィルスを保有していても増殖しやすい身体とそうでないものがあるのは事実である。

前者は病気による刷新効果が必要な鈍った身体※であり、後者は現時点で適応の行き届いた平衡状態にあることを物語っている。このような場合、体の中にウィルスを増殖拡散させない「何か」が存在すると言えそうである。

※野口整体では病気は鈍った感受性を正常化し、身体の弾力を取り戻す自然良能とみなす。

コッホが微生物を「病原体」とみなして以来、衛生研究の対称はもっぱら細菌やウィルスの研究といった外的要因の解明と除去に傾倒していった。

そのせいかはわからないけれども、病気の研究というと外から来る細菌やウィルスの研究が主で、内的要因に対する考察は余りなされていないように思われる。

「免疫」についてはある程度研究されているようだが、その免疫システムの鍵となる「何か」は依然として漠としたブラックボックスのままなのである。

これとは対照的に、整体は身体に起きた事象の内的要因を明らかにしよう考えてきた。整体法を生んだ野口晴哉はこの内的要因にこだわった代表的な人物の一人だろう。その結果として「潜在意識」という問題に行き着いたのだ。

野口の著した『風邪の効用』には「空想は体に現れる」という一節がある。

この空想を方向付ける要素が潜在意識の中にある、というのが野口が独自の研究によって明らかにした「人間」である。

木には意識はない(と考えられる)ために元々の物質的な構成要素に従って受動的に変化していくのみである。これに対して、人間の場合は空想によって身体は能動的に変化していく。

その変わっていく中にも裡から自発的に変わっていくものと、外からの刺激によって変えられるものがある。

例えば言葉だけでも顔色が良くなったり悪くなったりする。一通のメールで内容によっては血圧が変わる。あるいは食欲が増したり、逆になくなったりする。

「その何故そうなるのか?」ということを科学的に解明しようとすると大変な研究が必要になるだろうし、いくら研究しても結局何故そうなるのかは判らないかもしれない。

野口は人が健康に生きていくためにはその「判らないもの」の方が、栄養や衛生の知識よりも大きな働きを持っているという。

その判らない漠としたものが行動の元になっている。そこに潜在意識が内的な要因として深く関わっている、というのだ。

この内的要因の探求と方向付けが整体の技術の核心といっていいだろう。

一方で細菌学から出発した衛生法の辿り着いた答えが、外的要因を排除するための「マスクと距離」なのだ。現在はこの対策のために相当な方が難儀しているし、このような現代医療の方向性に「何かおかしいのではないか」という感覚を抱いている人も少なくないはずだ。

野口は風邪の菌でも結核菌でも「身体に病気の要求がなければ発症しない」と自身の体験から語っている。

加えて病気をきちんと経過すると、身体の偏りが解消されるのだと説いているのだ。つまり病症自体が生体の平衡作用であることを直感的に見抜いたのである。だから肺炎が流行るには肺炎になる身体の人が増えている、という観点から個人を探求するのが整体の立処である。

「野口整体は西洋医療を全否定うんぬん・・」という意見を耳にしたことがあるけれども、このような評価は整体法の一面しか見なかったことによる誤解である。

整体と西洋医療は互いに否定したり批判し合うような対立関係ではなく、興味や関心の対象が別分野なだけである。いわば研究の棲み分けをしていると考えたらいいだろう。

整体は何処まで行っても特定の個人を主観的に見ていくことが全てで、その個人の研究から得られた体験の知は、余人に理解を求めてもなかなか難しい。「健康」といっても「病気」といっても整体の観察結果は客観性に乏しいのが難点である。

この主観的な体験知に客観性を持たせる努力が整体に関わる人間に求められるだろう。多くの人にこの「内的要因」を認知してもらえたら、コロナが収束せずとも世の中が少しは変わってくるのではないだろうか。

独立と責任

少し前のニュースになるけれども、小学五年生の男の子が体育の時間にマスクをつけて持久走をした直後に亡くなったというではないか。

責任追及の苦手な日本のことである。もしかしたら本件の責任の所在も宙に浮いたまま風化していくかもしれない。痛ましい事件に直面しながら「再発防止に努めたい」では済まないと思うのだが。

実際事件後にどういった話し合いが行われているのかは知らないけれども、どんな裁定が下ろうともご両親の気持ちはどうにもならないはずだ。

冷静に考えれば苦しくなったらマスクなど外せばいいだけの話である。しかしながら、社会情勢の無言の圧力を前にたったこれだけのことができなかったのかもしれない。

ひょいとつまんで口元から布一枚ずらせなかったことが生死を分けた、といっても過言ではないだろう。小5の児童に自己責任を匂わせるのは非道である。

ところでドイツではマスク着用義務に従わなければ罰金が定めれれているそうな。これはこれでちょっとおそろしい反面、責任の輪郭はくっきりする。その分だけ国民も軽快に行動できるかもしれない。

真実の追求よりも「協調性」が優先される日本に生きるなら、周りが何といっても「これはおかしいのではないか」と思ったら、自分の責任で論理的に考え、発言し行動できる力を子どもの内から養っておく必要があるのだろう。

現状の学校教育は協調性を学ぶことに重きを置いているようだから、自分で考え自分の責任で行動していく独立人を待ち望んでも難しいように思われる。

そうなると小さな子どもの命を守るのはやはり親の務めである。ただ単に周りがそういっているのだから…といって、曖昧な正義に流される生き方を見せていると、これからの世の中は思わぬ危険につながるかもしれない(思い返せば戦前・戦中からそうだったかもしれないが…)。

協調性はもちろん大事であるけれども、これのみの教育では片手落ちになるだろう。自由と独立、責任といったことも大人の一人一人がその意味を吟味して行動し、自らが範とならねば独立した人間は育たない。

子どもを導く前に大人自身の在り方を点検する必要をつよく感じた次第である。

今のいのち

営業時間短縮の影響で近所の居酒屋さんでも弁当を売るようになった。

ごはんメインのお弁当の他に自家製のカツサンドなんかも置いてある。いま飲食はどこも大変だろうけど、こちらもアイデア出しの苦労が伺える。

酷暑の迫る中弁当を買いながら「マスクが苦しそうですね」と言うと、「キツいです(笑)、テレビでやってたんですけど、ずっとマスクしてると免疫力落ちるらしいですね」との返答がかえってきた。

おそらくそうだろう。人間も自然の生き物である。だから自然の適応の仕組みからは免れ得ない。普段は常に雑菌が鼻や口から入ってくるために、この数を体の中で調整しながら個体の健康を保っているのだ。

こうした微生物の侵入がしばらく途絶えれば、雑菌の量を調整したり活用したりする力は自ずから退縮するかもしれない。

とはいえ、ふたたび免疫能力が必要な環境に浸れば再適応がはかられてその力は増してくるはずだ。

生き物はみな絶えず外界からの刺激に応じて変化するのだ。こうしてある種の「平衡状態」を保とうとする働きがある。

もう少し平たく言えば、いつでもどこでもバランスを取ろうとする働きがあるのだ。

このように考えていくと、飲食店の営業時間短縮もマスクの濫用も、大自然の一部である人間の思考が生み出した自然の産物ということになる。

いずれどこかでこの均衡が破れたら、状況は破綻してまた次の平衡状態に向かって流れていくだろう。

もとより生命の活動に出発地点もなければ目的地もない。腰をかけて留まっていられるような場所は何処にもない。

完全無欠の「今」という同次元をみんなで共有し生きているのだ。

頭で考えているうちはこの「今」を本当に味わうことはできない。本当は考える前をみんな生きている。

それにしてもあまりに人間は自分の力を見失い、自己を過小評価しているのではないか。頭が大きくなりすぎて現実認識がボケていると思う。

もっとまっさらな目で自分という活動体を自覚する必要があるのではないか。それも今この瞬間に。

舞岡公園

昨日はかねてより行きたかった舞岡公園へ。

公園というよりは山です(注意)という下記のサイトを参考に、妻と息子と三人で、ややしっかりめに装備を整えて出発しました。

舞岡公園:本気の登山道がブルーライン駅から徒歩15分…

戸塚駅からバスに乗って到着、歩きはじめると先ずは有名(?)な水車小屋が姿を現しました。こちらはもう使われてはいません。「中に入って回したいよ~」と息子。

さらに進んでいくと、ときどき体験もやっているという田んぼに着きました。カエルの鳴き声につかまって、どうにか見つけようとかんばります。

近くでたくさん声はするのに、どこを探してもとうとう姿は見えませんでした💦(泣)

途中からわたしも参戦しましたが、確かにすごい声がするのにまったく見つかりません…ホントどこ…。

舞岡公園

途中のベンチでお弁当を食べた後、同年代の子どもを見つけて遊びはじめます。

なかなか帰ろうとしません…。

バスの時間がせまってきたので、しかたなく帰るコールして帰路へ。

今日は時間の都合もあって平地を中心にまわって、本格的な登山道には入りませんでした。

自宅から一時間くらいで行ける本気度高めのハイキングコースコースです。しばらく定番になるかもしれません。

次回はその山の先にあるというアイスクリーム屋さん目指して、登山道にも挑戦したいと思います♪🙂