自然(じねん)モデル

心理学者の河合隼雄さんはカウンセラーの態度の理想の一つとして、「何もしないということに全力を挙げる」という言葉を残している。

カウンセリングの現場では、カウンセラーが教育的なアドバイスや助言を与えた場合よりも、クライエントの悩みを深く共有しながらも、「何もしないで自然の変化を待ったとき」の方がより豊かな結果にむすび付くことを度々経験されたためである。

このような心理療法の技法、とも言い難いような技法のことを、自らの著書『心理療法序説』の中で「自然(じねん)モデル」と名付けている。

前掲書の中に上のような図が示され、下に行くほど治療者の役割が薄まり、患者(クライエント)の意志や努力が要求されるようになる。そして自然モデルに至ると患者、治療者(クライエント、カウンセラー)としての役目や関係性も消失し、「目に見えない何か」に一切を任せるという宗教的な態度に近づくのだという。

もともと日本には「果報は寝て待て」とか「棚からぼたもち」など、ぼんやりしていたら思わぬ僥倖に巡り合った、といった類のことわざがいくつもある。これは昔の日本人が自然(じねん)であることの恩恵を。生活の知恵的に理解していたからではないだろうか。

これに反して近年は「科学的根拠」が強調される風潮のせいか、効率化や合理性にこだわり過ぎて身動きが取れなくなってしまっていることが多いように思える。

もちろん「人事を尽くして天命を待つ」と古語にもあるように、目の前に置かれた自分の務めを誠実に果たしていくことは大切である。しかしながら物事の全体が円滑に進んでいくためにはこれだけでは不十分であって、やはり「自然の流れ」という目に見えない大きな力による面を無視することはできない。

冒頭の「何もしないことに全力を挙げる」という言葉は、その目に見えない大きな力を最大限に活用するための積極性と受動性を兼ね備えた態度ともいえる。

一方で、野口整体の方では健康に至る方法の一つに「ポカンとして体の要求に任せる」などといって、やはり「自然(じねん)」の力を活用する態度を重んじている。

活元運動も一見すると非合理で前近代的な迷信のようにも思われがちだが、上に述べたような背景をよく理解すると、心理療法の「自然(じねん)モデル」とも相通じる、古今不易の「合理的な」運動であることが理解されるだろう。

心理療法では身体について言及されることはさほどないが、整体法では頭をポカンとさせることは身体全体の条件に支えられた無垢なる精神状態であると捉えている。

整体操法が必要なのもそのためで、全身の筋がゆるんでこないと頭の働きは休まらない。つまり体に凝りがあるうちは「ポカーン」とならないのである。

何であれ、アプローチの仕方が違うだけで生命の最良の状態を自然(じねん)とする考え方は同じである。

一般的な教育現場や治療、臨床の現場において、このような自然(じねん)の果している役割は見えづらい。加えて数値化に代表されるような、可視化や見える化を重視する現代においてはなおさら死角になりやすいのだが、一度この力に目覚めた人は自分自身が見えない大きな流れと繋がりうる可能性に満ちた存在であることが自覚されるだろう。

この自然モデルの具体的な方法論が整体における「愉気」や「活元運動」ともいえる。どちらも効果を疑う人ほど潜在的な需要はある。いずれも努力して身に着けるものではなく、心の目が開らかれると自ずからそのようになっていく。自然はいつも生命と共にあるのだ。

自己実現の前に

久しぶりにせい氣院のサイトにページを追加した。「自我と自己」。

もとを正せば「自己実現」に関するページを作りたかったのだが、それを書くためにはその実現する「自己とは何か」を説明しないといけないことに気づき、さらに自己を説明するには「自我」について書かないと、と縷々必要性が生じてきて「自我と自己」を先に書くことにした。

河合隼雄先生の『ユング心理学入門』や『影の現象学』で使用されている図をもとに、まあまあいい感じの作図もできたのでまずまずの解りやすさに仕上がったと思う、……と思います。

ともあれ自己実現の方も早晩アップしたいので妻とこつこつ作業を続けている。

自己実現という言葉には一つ思い出がある。まだこの仕事をはじめたばかりの時に相談に来られた方が、問診票の〔希望欄〕に「自己実現」と書かれたことがあった。

内心「ああ、それはすばらしいな」と思ったけど、その当時はそれが何だかわからなかったのだ。わからないけれども一所懸命やってればなんとかなるだろうという素人の情熱頼みで(今考えると怖ろしいが)、とにかく頑張ったのを覚えている。

自己実現と言った場合一般的には「夢がかなう」といったようなニュアンスが濃いように思うけれども、これがユング派の心理学の中に留まった場合、その意味はだいぶ異なる。

もとを正せば「個性化の過程(process of individuation)」という、個人が他の誰でもない「自分自身になっていくこころのプロセス」を指した言葉であった。それがアメリカに渡っていつの頃からか「自己実現(self realization)」という言葉に成り代わり、やがて日本語としても定着したようだ。

これはアメリカン・ドリームというような直線的な成功主義とでも言ったらいいようなアメリカらしい語彙の変質と思える。先にも述べたように原初的な意味での「自己、実現」とは、意識的な努力によって富や名声を勝ち取るといったたぐいのものとは一線を画する概念である。

元にかえって個性化の過程といった場合、それは本当の意味での「個性」を確立するために、危険を顧みないでこころの深層に向かって掘り進んでいく、という極めて内的な修養的活動を意味する。

これは生を充実させることで死を豊かにしようとする、宗教行為の原型にも通じるものである。さらに言えばこころの奥底から湧出する純度の高い生命の要求に従って自分自身になっていく、「人格の変容と成長の途上」に重きを置く厳粛な態度とも言える。

ここで留意すべき点は個人が人格の変容と成長に向かって行くこころの動きは、必ずしも現状の社会に認知されるような普遍的価値観に則しているとは限らない、ということである。というよりは、むしろ一般に共有される成功の概念や社会的価値観に離反する形で「個性化」は現れることの方がずっと多いように思う。

現代的には「不登校」などがその典型ともいえそうだが、またこれを安易な見立てで「不登校=個性化」とみなして、無条件に「よしよし、」と容認するような態度は戒めるできである

多くの場合、個性化には長い道のりと独特の苦痛を伴う。子供が真の個性化の道を歩むには当然のことながら周囲の関係者(多くは保護者や養育者といった親族や教師、あるいは級友など)を巻き込みつつ、その葛藤を共有する人たちの惜しみない共感と協力が不可欠だからである。

少し脱線したが、よく考えれば現世で財を成すことや社会的な成功を収めるという行為はそもそもが他人の作った価値観に依拠するものである。生まれてきた子供が「俺は大臣になるぞ」とか「他を押しのけてでも成功するのだ」などとは言わないもので、野口整体でいうところの「裡の要求」に即した子供の生活というのは極めて恬澹としたものである。大人はこうした子供の在り様から学べることは多い。

人間といえど一生物である以上、本源的には「ただ生きる」という要求が在るのみなのである。それも分解すると種族保存の要求と自己保存の要求にわけられるが、要約すればそれは子孫を創造することと、そのために毎日食べていくことになる。

さまざまな欲求をずっと根本まで遡っていくと、究極的には花と団子しかないのが人間なのである。

そこに個人的な(個体独自の)感受性傾向というものが反映されて、まさしく独自の人生が展開されていくことが「自然な」生の営みではないだろうか。

ところが実際問題人として生きていくためには、個人的な感受性や欲求に基づいた生き方「だけ」を前面に押し出していく訳にもいかず、必ず外界(当世の価値観や宗教的な教義、政治思想など)との親和性を要求される。そうして当人は自身の内的な欲求と外的価値観の狭間で呻吟しながら生きることを強いられるのが常である。

そこで自分の裡から湧き上がってくる情動とすっぱり縁を切って(そのようなことはできないのだが、そのような「つもり」で)、外界適応に徹して生きる道を選べば一面的には安定を実感することだでき、まっとうに生きることができるかのようにも思われる。

しかしながら生きた人間というのは科学者が論じる非人間的な人間とは異なるものである。実際は感情をはじめ多様なこころをもった生体であるために、外界適応に徹し過ぎたあまり、意識との連絡を絶たれたことで積りに積もった「裡なる声」の反逆ともいえるような(ある意味で治癒的なはたらきとも考えられる)症状が現れることがある。

ノイローゼなどはこうした内的な無声の声が自我を圧迫して起こる、非自覚的な葛藤状態といってよいように思う。

いわば自己実現がはじまる一歩手前で逡巡している「待ち」の時期であり、自身の無意識の活動に畏れ、足踏みしているような体勢ともとれる。

俗にいう「生みの苦しみ」などという言葉もこのようなこころの性質に照らし合わせて考えると、そのメカニズムとの整合性と相まって味わい深く理解されるのではないだろうか。

少し長くなったが以上の内容をもってしても、世間で期待されるほどに自己実現が全面的に「善い」ものではないことが想像できるのではないだろうか。

もちろん巨視的には善としての顔も持ち合わせてはいるだろうが、その実体は善悪を超越した破壊的創造性を発現するダイナミックな精神活動であることを心に留め置く必要はあるだろう。

さもなくば無意識の強大な力を前にした途端、急激に自我の安定性が脅かされて精神疾患の様相を呈するやもしれないし、あるいはそうした危険性をそれこそ無意識的に避けようとした結果、意識の枠内で浅薄な理想主義や成功哲学をあれこれ論じるだけの「自己実現ごっこ」に興じて終わる例も少なくはないのである。

後者の場合は比較的安全な自我の防衛手段ともいえそうだが、このようなものが真の自己啓発や心理療法としてひろく世間に認知されることは、現在苦悩の淵にある多くのクライエントの可能性を摩滅させることになりかねず、大変に惜しいことである(かといって、あまり「本モノ」が流布するのも問題かもしれないが)。

ホームページには上に書いた内容も踏まえつつ、もう少し射程を広げて書こうと模索している。自分の体験や臨床経験も織り交ぜて書くことになると思うので、少々客観性や信憑性は犠牲になるかもしれないが、人間のこころの成長モデルについて少し踏み込んだ内容にできたら面白いと思っている。

私と“それ”

久しぶりに河合隼雄の『こころの読書教室』を読み返した。

本を読むと「こころ」にとってこんなにいいことがある、だから是非みなさん、もっと本を読んでくださいという本である。

この前書いたファンタジーが生まれるためにはどうのこうの…というのはどうもここに元ネタがあったような気がする。

全体で四部から構成されている本書の第一部が「私と“それ”」という見出しから始まるのだ。

“それ”というのはフロイトが用いた無意識を指す言葉「es」に相当するもので、日本語に訳すと文字通り「それ」に該当するそうだ。

私たちが普段的に「わたし、わたし…」と言っているとき、それはこころの全体の中のごく一部分である「自我(ego)」のことを表している場合が多い。

その自我の領域内から承認を得られず排斥されたこころの働き(受け入れがたい感情など)が“それ”の中にはたくさん貯蔵されているという考え方をまずフロイトが打ち出した。

いわゆるノイローゼ、というのは普段固く閉ざされているはずの“それ”(無意識)の扉がふいに開いてしまい、自我の安定性がおびやかされている状態だと考えられている。

こうなってしまうと本人も日常生活がままならなくなるし、周囲もその病状に巻き込まれて様々な苦労を強いられることが多い。

そうなると当然本人も周囲も、「こころの病気だから一日も早く元の安定した状態へ治したい」と考えやすい。

ところがユング派に至ってから無意識に対する見方が変わってきて、むしろこの状態こそがこころに具わっている補償的な動きではないかと考えるようになった。

つまりこのような煩悶自体が何らかの「治癒」的な働きであると仮定し、「早く治そう」とは考えずに、むしろいかにこの時期を「創造的に」過ごすかということに注力するのである。

ノイローゼや鬱と言われる状態はときに命を脅かすこともある。これらの病症だけにフォーカスすると、こころの中の無意識という領域は何を引き起こすかわからない恐ろしいブラックボックスにしか見えない。

しかしながらそこをもう少し視野を広げて巨視的に見ていくと、こうした煩悶の時期をじっくり経過したことで非常に安定的且つ個性的な人格を形成していくケースが少なくないのである。言ってみれば、無意識はその人の人生全体においては想定外の実りをもたらすトレジャーボックスにも成り得るのである。

この場合、何が良いか悪いかというのは見る人の主観にゆだねられると思っていいだろう。古くから「万事塞翁が馬」などというように、一見して不幸にしか見えないような体験でも、それを中長期的にじーっと見ていく習慣が身に付くと、思わぬ「好転」につながっていくような事象は少なくないのである。そう考えてみると、どのような事でもうかつに幸・不幸などと断定的な物言いはしずらくなるものである。

何にせよ、こころの深奥には我々の意識でははかり知れない「何らかの創造性」が内包されているいう仮説はそうそう否定はできないだろう。

「病の創造性」ともいわれるこうした側面はもとを辿ればアンリ・エレンベルガーという一人の精神科医による着想まで遡るの。個人の病症体験に「ある種」の有益性を見い出そうとするこのような見方は実は整体法(野口整体)とも親和性が高いのだ。

整体法とは生命に対する絶対的ともとれる信頼から生まれたもので、後天的な訓練によって健康を増進するような類のものではなく、いかにして「いのち」に元から具わる力と可能性を喚起させるかが主眼なのである。

無意識というのは換言すれば身体そのものである。その中でも生命活動の根本を担う中枢神経系(脊椎)を観察することで、“それ”の動きや訴えが如実に現れていることが解る。

野口晴哉先生が「(人間は)背中がオモテである」と言ったのはこのような事情によるもので、整体指導とは言わば“それ”の力を開放するために身体を通じて無意識の訴えを「訊く」のがその本領である。

ついでに言えば「治療」という行為には浅い深いがあると思っている。それらを最終的なところまで煎じ詰めていくと、「私と“それ”」の関係性を如何に調停するか、というのが根源にあるのではないだろうか。

このような回答に至るまでなかなかの時間と体験を有したが、河合さんの本にはずいぶん助けられたように思う。本書の有益性を上げていくときりがなくなりそうだが、そういう訳でやはりみなさんにもお勧めしたい一冊なのだ。

再びユング自伝

ユングの自伝をまた読みはじめた。

個人的には子どもの頃のエピソードはなかなか読むのに苦労する。というか、まあ訳本なのでどうしても読みがぎこちなくなる。

それはそれとして、やっぱり青年期以降、それから独自の精神分析態度による治療理論を構築していくプロセスは圧巻である(自伝1のⅣ精神医学的活動のあたり)。

その当時、いわゆる「精神の病」というのは医師でも手が付けられないものだったらしい。昔の早発性痴呆(今でいう分裂病、統合失調症)はライ病患者と同様に、治療者とともに町はずれに隔離しておくしかなかったようである。

そう言えば、黒沢明の映画『赤ひげ』にも精神疾患の娘が離れの小屋に滞留させられていた。自然科学が未発達な時代にあっては、このような対応は致し方なかったのかもしれない(現代の「カガク」的な対応が良いとは決して思わないが‥)。

兎も角、そのようないわば常識やタブーに対して、はじめてユングという人物が斬り込んだ。心に深いこじれや偏りを抱えた人たちが訴える妄想や苦しみを一所懸命に聞いてみると、その病的な態度の裏にある本当の「理由」が明らかになって、治っていくのである。

それは革命的なことだったのだ。

それというのも苦しんでいる人を捨て置けない「いきさつ(=人生の物語)」がユングにはあったわけで、他者の治癒に関わることが自身にとってのやすらぎだったのではないかと思われる。

野口整体の野口晴哉先生はその圧倒的な技量と人徳ゆえに治療を求める人があとを絶たず、そのあまりの多忙さを見かねた周囲の人が「少しお休みになられては‥」と進言したところ、「僕が休まるのは苦しんでいる人に手を当てている時なんだ」と答えられたそうである。

人間の世の中には「支えているつもりが支えられている」ということはよくある話で、臨床においても治療者と患者の立場がときどき入れ替わりながら治療が瀬妙に進んで行くようなこともなくはないのである。

まあとにかく、ユングこそが人類の心の多重性を明らかにした立役者である。

一方で、「身体を媒体として意識に切り込んでいく」という点で方法こそ異なるが、野口整体も人間の潜在意識を重視した点は一緒である。

いずれにせよ治癒の鍵となるのは、どれだけ深く患者に「関われるか」だろう。

それには治療者自身が自分の心の真底まで降りていく勇気と訓練は欠かせない。

こんなことを書いていたら、20年前、自分の通っていた大学の学部長(文学部)が講義の最中にぽつりといった一言を思い出した。

「人間が一番深い」

限りある時間の中で、どこまでその深さに踏み入って行けるだろうか。

自分とは何か。

達磨大師は「お前は誰か!」と詰め寄った武帝に対して、「不識(知らない)」と言い切ったが、その判り切れない自分の中にいつだって無限の広がりがある。

自分が何者か、

これを知らずに死んでいくのはまこと惜しいことである。

禅、瞑想、活元運動などを日課とし、意識を閉じて無心に聴く訓練の必要をくり返し説くのもこのためだ。

古来から多くの宗教家が心の世界を独自の主観を磨くことで明らかにしてきたが、ユングも近現代における貴重な心の導き手の一人であることは間違いない。

『こころの読書教室』を読む

目の前のクライエントさんのことは、いくら本を読んで探してもどこにも書いていない。それは本当にその通りなので、とにかく「ひとりの人」が来られたら「一生懸命その人の話を聴く」というのが、カウンセラーに残されているたった一つの武器と言えるかもしれない。

だからといって、読書が心理臨床に全く役に立たないかというと、これは役に立とうが立つまいが「是非とも読むべき」で、プロならば読まなければならない。いや、実際は大いに役に立つはずだ、と私は信じている(ただ、ほっとんど読めていませんが‥)。

カウンセラーにとっての読書は、例えるなら消防士さんが毎日筋トレをするようなものではないだろうか。筋トレさえしていれば人助けができるという訳ではないが、基礎体力は絶対にいるし、有事に備えるプロ意識の具現化という観点からも必須だろう。

とりわけ「こころ」を中心として人間の全体に向き合う「治療者」にとっては、読書は日々の食事や睡眠、呼吸と同じように当り前のことだと思う。

著者の河合さんが冒頭に言う、「(みんなもっと本を)読まな、損やでぇ」と投げかけた言葉のウラに、そんな含みを推理した。

読了後、何よりうれしかったのは「治癒」という現象の論理性に、非常に安定的な「枠組み」が構築されたことだった。つまり「〈治る〉とはこういうこと」、「こうなれば〈治る〉」ということの必要十分条件が立体的に捉えられたのである。

一方でモノゴトには安定的になり過ぎるとかえって死に近づく、という逆説的な面があるので(←動的平衡)、構築された理論に対して「本当にこれでいいのかな?」という第三者的な批評の慧眼はいつも開いておきたい、とも思っている。

話は行ったり来たりするけれど、この『こころの読書教室』が新潮文庫に入る前のタイトルは『心の扉を開く』(岩波書店)だったという。

「読書」という行為は心の深層へ通じる扉を開き、私自身が普段は心の下層に眠っている〈わたし〉に出会うこと。

またそこからさらに進んで行った先に、〈たましい〉とか〈いのち〉などと呼ばれる、生命の全体性と深くつながるための儀式によって人は癒され成長して行く、ということまでを示唆している。

ちなみに「心」から「こころ」へと表現が変わったのは、精神の領域をより広範囲に求めるという目的で、もとは夏目漱石の小説にならったそうだ。

さて、本書においてそのこころ(=無意識)の扉を開くための水先案内人として、適任と思う書物を全四部構成として一部当たり5冊ずつ。「まずはこれを読んでください」と紹介してくださっているので、それが計20冊。

これに加え、「もっと読んでみたい人のために」という括りで、さらに5冊ずつ。だから総計で40冊が掲載されていることになる。

一冊ごとに河合さんならではの読みの深さを背景に、優しいユーモアを織り交ぜた書評が豊かに綴られており、どれをとっても「あー、コレはぜひ読んでみたい」と思わせてくれる。

そして一部を読み終わると、氏の伝えたかった大切な「想い」が知らない間にこころの中にそっと贈られている、といった印象だった。

本書を通じて、「人間」というもの、そしてその人間が生きている「人生」という事実がいかに多面的かつ多重構造的であるか、ということを教えてもらった感じがする。

世間では時折り、「目的を見失うな」という言葉を耳にするが、目的が単一的かつ固定的であれば当然それだけ迷いにくくもなるし、進歩も早い。

ただしそれは人生50年などと言われていた時代なればこそ、有効な助言であったのではないだろうか。

いまや半数以上の方が長寿を保証されたかのような現代社会にあっては、むしろ人生の意義を多面的に捉え、いかに有用な道草を食うかということが来るべき死をより豊かに完成させるためには大切な「プロセス」になるのではないか、とも思える。

しかし体力的にも経済的にも、そして時間的にも限界のある人間にとって、自分の足で歩める「道」には限度がある。

当然のことながら性愛や生死にかかわる事象など、あまりにリスキーなことは理性的に避けなければならないし、そんな風に何かと制限つきの娑婆にあって、「本を読む」ということは(仮想とは言え)こころの体験値を安全に増やしてくれるありがたい行為であることは間違いない。

まあ、兎に角、「読まな、損やでぇ」という河合さんのユーモラスな愛情表現ともとれる一言に、本書の主旨はギュッと濃縮されている。紹介された本にはこれから一冊ずつご挨拶をして、丁寧に語り合っていこうと思う。

そして40冊分の物語を体験した後で、私自身が一体どんな〈わたし〉と出会うことができたのか、それが今から楽しみである。

影をなくした男

シャミッソー作『影をなくした男』を読んだ。

wikiによるあらすじはこちら

物語の主人公シュレミールが自分の影を大金(無限に金貨が出てくる袋)と引き換えに悪魔に売り渡したことからさまざまな出会いと別れ、そして深い自己内省の後に開かれる第三の道。

まさしく個人の人生の縮図として象徴化された物語といえる。そこで、シュレミールが手放してしまった「自分の影」とは一体何を象徴しているのか?という深読みが他の本やネット上でよくなされている。

心理学的に読もうとするならば、まず「影」といった場合それは「心の中に潜在する上手く生きられていない自分」を指す。

“影をなくした男” の続きを読む

河合隼雄著『中年クライシス』を読む:心でも体でも病症が人間を整え丈夫にする

開業当初はあまり年齢層が絞れていなかったが、現在せい氣院に通われている方は30代の前半から40代の半ばくらいの方が圧倒的に多い。

ときおり還暦を控えたような方も来られるけれども、だいたい3~5回(2~3ヶ月)通ったあたりで当初の主訴が解消されると同時に「卒業」されていく。

その主訴というのも腰痛や動悸、息切れ、血糖値の異常といった年齢相応のトラブルに対して、病院の処置に満足がいかずに来院されるというケースである。

整体操法によって「首尾よく治ってしまった」と言えば聞こえはいいけれど、こうした年長の方々に対して「その先」の可能性を感じていただけないのはやはり力不足なのだろう。

これとは対照的に、永続的に指導に通われているのは「自分自身に取り組んで、可能性を掘り起こしたい」という要求を感じさせる壮年期の方々である。

これがいわゆるミッドライフ・クライシスとか中年の危機とよばれる、精神的「ゆれ」に脅かされやすい年齢層の人たちだ。

ただし、この「中年の危機」は中年に限定されるかというと、そうでもないことに最近気がついた。というよりもそもそもが「中年」の定義自体が曖昧と言えそうだ。

ユングに倣って言えば、人生を日の出から日没に例えて40歳を〔正午:中年の真ん中〕とした。

“河合隼雄著『中年クライシス』を読む:心でも体でも病症が人間を整え丈夫にする” の続きを読む

活元会 2017.10.14:「個性化」とは?人生の後半に充実感を持たせるための大切なプロセス

昨日は活元会でした。

今回の教材はこちら。


『ユング心理学と現代の危機』河出書房新社

著者は複数、湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏。うち、高橋豊氏のパートから。

テーマは「個性化」です。

まず「個性化」というのが少し専門的ですから、これについてまず河合隼雄先生の『ユング心理学入門』より引用してみると、

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuaton process)、あるいは自己実現(self-realizaation)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。そして、われわれが心理療法において目的とするところも、結局はこのことに他ならないのである。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.220 太字は引用者)

と、このように書かれています。

この「自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」というのをもう少し平易に表現すると、

自分の人格の成長を思って努力している過程」というような表現でもよいと思います。

この個性化こそが心理療法の目的である、というのが河合先生(元はユング)の論です。

そこで「どのようにしてその個性化を行なっていくか」ということが問題になるわけですが、ユングは自身の精神的危機を乗り越えて行く過程で「ヨーガ」を活用したと言われているのです。

つまりユングは当時の西洋にしてはかなり前衛的な試みとして、身体を通じて心の再編を行なうための実践的方法を追及していました。

そこに一つの強力なガイドとなったのが東洋思想と、東洋的な身体行法であったと考えられています。

当然ユングは年代的にも地理的にも日本の活元運動の存在は知るよしもありませんでしたが、この意識を閉じ、無意識に任せて行う活元運動は、自我を高次の全体性へと向かわせる手段として、非常に適しているものなのです。

野口整体には「全生」という、心を自我という枠から解放して命を全うする生き方を推奨する、教義があります。

これは先に挙げた心理療法における個性化、あるいは自己実現という概念と目標をほぼ等しくするものです。

当会の場合は、その「全生」あるいは「個性化」という方向へ生命を向かわせるための大きな推進役として「活元運動」を位置づけています。

何ごとも「目標をどこに置くか」で着地点は変わるものです。

志ある方は「よく生きる」という目標をもって、全身のちからを抜き、意識を鎮め無心のちからを体得しましょう。

次回、次々回の活元会は、10月9日(木)、28日(土)です。

ユング心理学における「影」について2:影は心ののびしろ

…このような影があってこそ、われわれ人間に、生きた人間としての味が生じるのであって、ユングも「生きた形態は、塑像として見えるために深い影を必要とする。影がなくては、それは平板な原型にすぎない」と述べている。影のないひとは、いかに輝いて見えても、われわれはその人間味のなさにたじろぐことだろう。

シャミッソーの有名な「ペーター・シュレミール」のお話は、影を失った男の悲哀を、うまく描き出している。この素晴らしい物語の最後に、シャミッソーは、この物語を皆さんにおくるのは、人間として生きるためには、第一に影を、第二にお金を大切にすることを知って欲しいためだと書いている。

これをみて、筆者はある精神分裂病のひとの夢を思い出した。夢のなかで、このひとは、自分の影が窓の外を歩いてゆくのを見るのである。自分の影が自分のコントロールを離れて、一人歩きを始めたら全く危険きわまりないことである。

分析を受け始めると、ほとんどのひとがこの影の問題にぶち当たる。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.102 改行は引用者)

※塑像(そぞう)粘土・油土・蠟ろうなどを肉付けして造った像。銅像などの原型としても造られる。

心身に起こるさまざまな病症はもとをたどっていくと、自身の心の全体性が躍動しないことで「よく生きられていない」という、深層心理の問題が契機となっていることは少なくない。

このような個人のなかにおける「よく生きられていない部分」のことをユング心理学では「影」と呼んでいる。そしてそれをいかにして認め自身の心に統合していくかというのが心理療法の、特に初期における治療の焦点である。

ところが影というものはそもそも、物体に光があたった時にあらわれる必然の現象である。それだけに影を統合し消失させようとする行為は、その母体の存在をも危うくさせる可能性にさらされる。

また引用文に「生きた人間の味」というふうに表現されているとおり、影はいわばその人の隠れた持ち味でもあるのだ。

芸術家などはこの影を原動力にして創作・表現活動をしている人がほとんどであるために、そうした職業にある人が精神分析を受ける際は、事前に治療者とクライエントの間で入念な話し合いが設けられるのが常である。

整体の臨床においてはどのように対応していくのか、ということを考えてみると、もちろん個人ごとに全くことなるオリジナルの対応をそのつど生み出していくことは当然であるが、人間の精神と肉体の間にある共通の反応を理解し活用することはとても有効である。

まず基本的な話として「受け入れる」という行為は身体上に硬張りや固さがあるうちはできない。うらを返せば、身体の硬張りを上手にゆるめることさえできれば、その治療は半分以上成功したといっても過言ではない。

そこで「いかにゆるめるか」という問題に直面するのだが、整体指導といっても心理療法といっても、実際にクライエントの内面にまでおよぶ変化を引き出すものは技術以前の「何か」によるところが大きい。

その何かのなかに雰囲気や環境というものもふくまれる。

まず人がゆるむために欠かせない条件の一つに「安心」があげられるだろう。ほっとするとか気持ちがよいと心から感じられる雰囲気や環境がまず最初にクライエントの人格を受け入れ、それによってクライエント自身が自分を受け入れるという筋道を学ぶことができるのだ。

だから強力な影(実生活にあらわれていない自分)からの圧迫に悩み苦しんでいるひとに出会った場合、わたしは「抱える能力」を有した心の豊かな人との積極的な交流をすすめることが多い。

つまり自分で自分を受け入れるためには、まず自分以外の人に受け入れられる必要があるのだ。

そうして「あるがまま」、本当にちからが抜けきったときにあらわれる無垢な自分像というのを少しずつおもてに出してくことで、影の統合はむりなく行われていく。

先の引用に示されたように、もちろん容易なことではないけれども‥。かといって不可能なことでもない。俗にいう「いい年の取りかたをした」などという表現は、影の統合がうまいぐあいに行なわれた人を讃えるほめ言葉のようにも感じる。

実際には自身の「影」とは分離したまま、「陽の当たっている自分」だけで生活を営み比較的穏便な生涯を終える例も少なくないのだが、必要なひとは「悩む」という動的な葛藤状態へ自ら向かい、影との対決を余儀なくされる。そのあたりは無意識の要求に委ねられていると考えて良いだろう。

基本的には人間の無意識層には人格の全体性に向けて変容・成長して行こうとする要求が内包されている。だからそうしたもともとの要求が自然に花開くような環境を与えることで自然治癒力も最大限に発揮される。

そういう意味では人が癒えていくためには必ずしも「専門的な治療の場」が必要かというとそうとも言えない。

じっさい影の統合にやっきになっている間はむずかしかったものが、旅行のようなレクリエーションの場でふいに緊張がゆるみ、そこからスムーズに自我の再構成が行われるような例も存外多いのである。

このような治療なき治療、一見して何もしていないような行為のなかにも自由で開かれた「場」というのが展開することで思わぬ治癒効果をもたらす。これは人間のなかにもともとよくなる力が備わっていることの証明でもある。

良き治療者はそうした生命のもともとの力を発揮させることだけに専念し、何もせずとも快方へ向かうことを最良の方法と考え、実践するのである。何故そのようなことが可能であるかといえば、影こそが成長の種だからであろう。

よく生きられなかった部分というのは、うらを返せばその部分をひっくり返すことで光に転ずる、つまり影をパートナーとしてその人の人生を充実させることができるのだといえる。そこで治療者はクライエントに対し影のマイナス面を伝えると同時に、「可能性」を得心させることができれば心身両面の治癒は大きく進展する。

軽微な視点の転換ではあるが、病症と対立し、こう着状態を生まないためには重要な技術である。病症を味方につけ、影を善用する、こうした態度は個人が心の全体性を取り戻していくうえで非常に重要な条件の一つ言えそうである。

 

関連リンク ユング心理学における「影」について:整体指導と心理療法のアプローチ法の比較 影をなくした男

ユング心理学における「影」について:整体指導と心理療法のアプローチ法の比較

昨日ミッドライフ・クライシスについて書いた記事でユング心理学の「影」という概念に少しだけ触れたが、実際には今まで否定的にみていた自分自身の資質を認め、受け入れていく作業というのは整体指導や心理療法の治療モデルの根幹をなすものである。

いわゆる自己受容と呼ばれるそれである。

最近は「あるがままの自分を受け入れて‥」という言葉をよく耳にするが、耳ざわりがいい反面、自己受容という作業はなかなかに困難なものである。

ものごと全般においていえるが、嘘というのは案外やさしく、真実は厳しいことが多い。それだけに自分自身が影に追いやった資質に肉薄するというのはそれだけ心のエネルギーを要する行為なのだ。

これについて河合隼雄著『ユング心理学入門』に判りやすい記述があるので、一部抜粋して引用する。

影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が認容しがたいとしている心的内容であり、それは文字どおり、その人の暗い影の部分をなしている。われわれの意識は一種の価値体系をもっており、その体系と相容れぬものは無意識化に抑圧しようとする傾向がある

…影はつねに悪とは限らない。…それはむしろ、今後、自分のなかに取り上げられ、生きてゆかねばならない面と考えられる。つまり、今までその人として否定的に見てきた生き方や考えの中に、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化してゆく努力がなされねばならないのである。

このような過程が分析において生じるのであって、これを、ユングは、自我のなかに影を統合してゆく過程として重要視している。分析というと、何か自分の心理状態を分析してもらって、分析家に、あなたは何型ですとか、こんなところがありますが、こんなところはありませんかとかいってもらって終わるものと思うひともあるが、そんな簡単なものではない。

自分で今まで気づいていなかった、欠点や否定的な面を知り、それに直面して、そのなかに肯定的なものを見出し、生きてゆこうとする過程は、予想外に苦しいものである。影の自我への統合といっても、実際にするとなると、なかなか容易ではない。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 pp.101-105 太字、改行は引用者)

このように、一人の人格のなかには自分として相容れない異物のような資質があり、それが抑圧された結果として「影」が構成されている。

「マイナスや欠点は本人の努力によって克服すべきもの」という考え方はよく目にするが、こういった「前向きな」思考態度は欠点を欠点のまま受け入れ、上手に活かすという自然体(あるがまま)で生きていく道を死角に追いやることになる。

たとえばここにダイエットに関心をしめす女性がいたとする。するとその女性は「やせればきれいになる」という価値観がつよく入ってる人であるといえる。

そこで仮にやせることに成功して自信を持ったとしても、「やせていない自分像」は否定されたままなのだ。

だからつねに体重の増減によって安心したり不安になったりする気持ちは抜けきらない。

ところが2~3歳くらいまでの子供を見てみればわかるが、子供にはもともとそのような価値基準はないのである。

だからこのような場合、人生上のどこかで「やせていない=バツ×」という価値体系をどこかで持たされてしまったと推測することができるだろう。

そのような場合、理想としてはそうした価値体系を持たされたときまでさかのぼり、そのような容姿の変化で左右されない心の安定感を取り戻すことが自己受容の自然なプロセスである。

少し話はそれるが、野口整体では整体指導という臨床のなかにおいて、「潜在意識教育」ということを中核に据えている。

すなわち意識の深層に格納された、その人の心身全体における調和を阻害する「異物」を消失させることを目的としている点では、ユング派の心理療法によく似た面があるといってよいだろう。

違いをあげるとすればその手法にある。心理療法は言語を主体とし、その補助的手段として箱庭療法や遊戯療法、あるいは体操のような身体的刺激を用いるのに対して、整体指導の場合は言語と非言語の境界が曖昧であり、むしろさまざまな身体的刺激が溶け合って一つの技術体系をなしている点である。

つまり言葉もまた音を媒体とした身体的刺激として考えている面があるし、身体的刺激と言語作用を互いに相乗的に活かすことができるレベルになるまで指導者は訓練を積んでいく。

ともかく方法論はそのように違うにしても、身体上にあらわれた問題に対し、その原因を心の深層部に求めるという点では通底しているのである。

心理面においても身体面においても、表層部へのアプローチに留まる治療法は多数あるが、そのような方法のみでは充分に対応しきれないクライエントに対して上に挙げた2つの手法が有効となる。

逆にいえばクライエントの関心が表層の問題に留まっている段階では、充分に整体指導や心理面接の効果が上がらない、あるいはその真価を活かしきれないケースも出てくるから注意が必要である。ニワトリをさくのに牛刀を用いるようなもので、相手の求めに適った技術で対応するのは治療者の必要とする能力である。

これは整体の技術でいうところの「機・度・間」という言葉でも説明ができる。つまり機会・度合・間合の3要素によって技術の成否は決まるという考え方だ。クライエントにとって適切なタイミングで適量の刺戟を用い、その後の変化を待つ(見守る)という、このバランスを重んじるのである。

一方心理面接においても「機が熟す」という言葉を用いて、クライエントの心的エネルギーが充実し、自身の「影」と対峙できる気力や体力が認められるまで待つことを大切にしている。

いずれにしても相手のなかにある健全な生命力というものをアテにした技術体系であり、その点においても両者を相補的にとらえ理解を深めることでより高次の治療体系を開拓できる可能性を感じさせる。

また理論も大切だが、それを使いこなせるかどうかは個々の治療者の経験にもとづいた力量によるところが大きいのも事実である。内的世界における影との対決を助成できるのは、先にそうした体験を通過したひとである。

生命活動の根幹を司るのが深層心理であるが、そこに関わるためには治療者自らが歩んだ内的世界の散策経験がモノをいう。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーによって「自分と折り合いがついた分だけ、人とも折り合いがつく」という言葉が残されているが、己を知った分だけ他者がわかる、というのが人間の特性ともいえる。

つまり豊かな人間関係を気づく鍵はつねに自己の内的世界における対話によって開かれる可能性を秘めている、といっていいだろう。そこで焦点となるのは、それまでそのひとが心の全体性へと向かう動きを阻害してきた「影」という領域と、どれだけ親密な関係を気づけるかどうかにもかかっている。

つまり自身の生み出した「影」はそうした暗いイメージとはうらはらに、その後の人生における光の可能性を宿しているのである。

その光を求めて他者の心理の闇に潜っていく勇気や慈悲といった心は、生命を活かす道を歩むうえで欠かせない共通の態度であろうとわたしは思う。

 

関連リンク 影は心ののびしろ 影をなくした男