願う心

東洋的な考え方で、病気を退けて「健康」を主体的に維持していく姿勢を養生(ようじょう)といいますね。

野口整体は病気になろうが失意のどん底まで落っこちようが、生きてる限りは死ぬまでがっちり生きるんだよ、といって、これを「人生をまっとうする」という意味を込めて全生(ぜんせい)といっています。

だから整体指導で対象とするのは腰痛などではなくて、腰痛になったり、そういう状態であり続けようとしている心の使い方を正すということになります。

逆にいうと腰がよくなったら何がしたいのか?という志(心指し)が始めにかちっと定まらないと、目的地の決まっていない運転手さんにナビするみたいでどんな操法も徒労に終わってしまいます。

仏教ではこういう志のことを、ねがうこころ、とかいて「願心」(がんしん)とか、いうらしいですね。

最初にこういう使命感というものが立つと、ひとりでにスッと気が一つに纏まってきます。

ところがこうやって気が纏まらないであちらへ散ったり、こちらえフラフラ戻ってみたり、ということをやっていると身体の乱れを通じて生活全体に芯が無くなって乱れてくる。

一般に気が去れば「腐る」、気が散れば「朽ちる」といって、生き物にとって気の集中がなくなるというのはそれだけ死が近づいているということだといえます。

ちゃんとした「時期」がくればそれでもいいのだけど、今は死魚の目といって、教育が悪くなったせいで生きているうちから死んでいるような目をした人(子供も!)が増えています。

そこを何とかしたいので、せい氣院の野口整体では最初から身体の統一(腰を入れること)を通じて、気の集中感というのを養い、統一体を体感していただくことが目的になっています。

ずっとこういう角度から技術を行ってきたので、野口整体はむかしから施術といわずに整体指導という言葉を使ってきたんですね。

せい氣院にお越しになる人でも、この感覚がピンと来ない方は次が続かないのです・・。

だからといって無理やり使命とか志を持っていただくこともできませんが、こういうことを孟子は<浩然の気>という項で上手く説明していますね。

野口先生は「整体は真面目に生きる人のためのもの」といっておられたそうですが、「肉体を正して気を一つにする」、ということが指導の根本に無いと根無し草のような腑抜けの操法になってしまいます。

受ける人のこうありたいという願う心と、整体指導者の気の集中が合わさってはじめて質の高い操法はつくっていくことができるんですね。

何にせよ、生きているうちは、夢、持った方がいいですよね。

人間だもん^^