その昔、ドラゴンボールでナメック星人のデンデが手を当てて孫悟飯の傷を治している姿を観て、「あんなふうに人を癒せるってなんかいいな。」とトキメキまじりに観ていた。気がついたら大体そんな感じになっているではないか。
それと同時に、自分は地球人として絶対戦闘タイプではないナ、と直感したものだ。
話は変わるが、今朝おなじみさんのお客さんと話をしていた時に「先生は何を見て(身体の良し悪しを)判断してるんですか?」と聞かれて、なんて答えていいかわからなくてしばし閉口してしまった。
いま思うと一番大事な一点は「その人が幸せかどうか?」、ということか。幸せならなんでもいいんだけど、じゃぁ「幸せってどういうこと?」って考え出すと着地点がわからん。ポン酢醤油のあるウチだろうか・・?
整体指導ってなんだ?といったら、この人にとって幸せな人生ってどんな人生?何がどうなったらいいの?どっちに向かってどんな速度で誰と一緒に歩いていったらいいの?って、こんな事を身体を押さえながら・・・
ずーっと、ずーーーーっと、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと考え続ける作業である。
いわゆる病(やまい)とは病む(止む)こと。生命活動が停滞していることだ。では「何故動きが止まってしまったの?」と言えば、それは精神と肉体の活動がズレてしまったから。具体的な例を言えば、泣きたい時に泣けなかった人はいつまでもこわばったままなのだ。
そこへ病気をすることで治るためのある種の「集中感」が起きる。その集中力でもって精神と肉体のズレは快復という一つの方向へ定まっていくのだ。だから痛ければ痛い、苦しければ苦しい、だけれどもそれが健康の働きということで、それでいいのだ。
そんな風に、乱れた中にも統一へ向かう一つの動きを見つけ出して、それを自分にも相手にも示す。こういうことが野口整体の人間賛歌的な生命観だと思う。
そこで何を見てるのか、と言われれば体表に現れる内面としての「気」、これが澄んでいるかどうかだ。こちらが見て「澄んでいる」とは、正坐をしたときに頭のてっぺんからお尻に向かって静かに気が流れている状態を言う。これが人間が柔らかな安心・安堵の中に包まれている姿と言える。
こんな身体感覚を、子供の頃から周囲の大人と一緒に何度も何度も体験できた人は、少々のことではヘコタレない丈夫な心を始めから持っている。逆にこの感覚が少し足りなかった人は後から愉気で満たしていくのだ。
健康とは自分だけではなく他人の幸せをも願って活発に動ける身体のことだ。そんな人が増えていくと、世の中もますます温かくなるな。デンデのように手を当て合って生きればいい。どうせならみんで幸せになりたいものである。人間だもん。