震災後の教育

今年もあと僅かになった。3月に地震があったときは、毎日報道を見ていてこの世の終わりかとも思ったけど、やっぱりそんなことある訳もなく一切は流れている。

被災された地域やみなさんに具体的に何かできましたか?と言えば僕は一つも何にもやれていない。あたりまえの話だが。事態は天災から人災に移行して、右往左往してる間に被害が拡大したのはどうやら事実らしい。

通っている方にも被災地に行って支援活動したいという人がいた。僕だって10年前なら同じように考えたかもしれない。人間って命を燃やす理想や対象がないと生きていることが辛くなってしまうのだ。

たしかに志も大儀も見つけるのは難しい時代だけれど、それぞれの人生でその人なりのテーマや頑張り様があるはずだ。クサらないで目の前の仕事をコツコツ丁寧にやってみるのも有効だろう。

僕はこの国を守りたくて野口整体の道に踏み入った。そして直後に血ダルマになった。いや個人的な話ね・・。

だけど今の状態をフカンでみれば「ああ、自分はこういうことがずっとやりたかったんだな。」と無理なく腑に落ちるのであった。

個人的には、今回の一連の騒動の因子として戦後教育の弊を思う。「一年後を思えば花を植え、10年後を思えば木を植え、100年先を思えば、人を育てよ」と格言にもあるように、本当の人間を育てる教育の再興が求められると思うのだ。

次代を担う子供たちには1ミリでもいいから「実」のある経験をさせてあげることだろうな。知識ばかりの詰め込みでは艱難を乗り越え、生き抜く力は養われない。それと、ゲームばっかりやってないで、土とか水、お互いの身体に触れあって小さいうちに「肌の記憶」を沢山作って上げることだ。〔事実〕はいつだって知識をぶち抜いている。実体験のみが、その時そのように処せる力を培うのだ。

僕の場合は毎日、野口整体の可能性を楽しんでいる。未知なる物はスリリングで面白い。

魯迅の残した「思うに、希望とは、もともと有るものだとも言えぬし、無いものだとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」という話が残っている。野口晴哉先生の踏み跡も、このままあと100年もほうっておいたら草ぼうぼうの野原に戻りそうな気配だ。

後から来る人のためにも、もう少し整備して歩きやすくしてから死ぬのが自分の今世の仕事かと思う。どれだけできるかわかんないけど、やんないよりはマシだ。やれるだけやってやろうじゃねえか。