20代の中頃に膝の手術をした。手術した夜は膝を鈍痛が襲ったのだが、その時に飲んでくださいと言われて出されたのが「ロキソニン」だった。飲むと痛みは和らいで朝まで眠ることができた。鎮痛剤というのは突発的な外傷(手術も含め)にはたいへん威力を発揮するものである。
先日そのロキソニンの副作用で新たに「小腸・大腸の狭窄・閉塞」が加わったという情報を目にした。別に驚くような話ではないと思うのだが、薬事「法」などが絡むとさらりとは流せない問題なのだろうな。もとより副作用を恐がったら薬は一錠たりとも飲めない。「治療薬」などという言葉のために誤認しやすいのだが、薬というのは治すための物ではない。身体を治すのはいつだって「命」である。
じゃあ薬は何かというと、「身体の働きを変性させるもの」というのが適当だろう。だから痛いという正常な働きを変性させて痛くなくしている。身体の働きを変性させているのだから、薬という名の毒とも言える。毒も薬も同じモノに対する二種類の表現法でしかない。
先の手術のような場合には「原因」となる外傷はやがて消えていくので、痛み止めは「有効」だが、慢性的な疼痛に対して痛み止めは無力であり時に害でしかない。所詮「痛み止めが効いている時だけ痛くない身体」なだけで、薬がなければやっぱり痛い。原因が居座っていれば当然の結果なのだ。
だから慢性腰痛の「治療」目的でロキソニンを飲むことなども無意味だろう。予防接種法の中には「国は、国民が正しい理解の下に予防接種を受けるよう、予防接種に関する啓発及び知識の普及を図るものとする。」という一文があるが、個人的にはこの予防接種に関する「啓発及び知識の普及」が充分とは言えないと思っている。そのために、薬のことは自分の責任で調べて、「必要かどうか」を主体的に決めるべきだろう。これは薬と名のつくもの全般において考えたいものである。
俗に「野口整体は薬を飲まない」と思われやすいのだが、実際は薬を飲む、飲まないなどはどうでもいい話だ。正しくは「身体の正常な感覚に依拠して生きる」ことに尽きる。何かに依りかかっている間は健康に関する不安が尽きない。毒も薬も自分の力として使えるのは「生きている」からで、これを自覚すれば身の回りの色んなものが自在に使えるようになる。自立した健康とは斯くいうものである。