ボディワーク考

私の先生は「ボディーワーク」という言葉を好まなかった。戦後世代としては横文字である上に響きからして軽薄なニュアンスを感じるのかもしれない。

いわずもがなだがワークとはおよそ仕事、勉強、研究といった意味である。先生に言わせれば整体法(野口整体)は養生とか修行という位置づけだったので、その観点からも受け入れ難かったのではないだろうか。

因みに英語には「修行」という言葉にぴったりくる訳語はないそうで、訳者はその都度前後の文脈から適当な言葉を探さなければならない。

まあともかく、巷にはボディワークがいろいろある。

そういうものをいろいろやってから、その一環として整体法(野口整体)に目をつけてうちに来られる人もいる。

実はこの「いろいろやった」というのがなかなかのクセ者で、いろいろやってきたことが引っかかって整体法の門をくぐれない人がいる。

どうも観ていると、雑多な情報や刺激が交錯・混濁して「自分の」身体がよくわからなくなっているようだ。さらにいえば直感が鈍っているようにも見受けられる。

健康に自信がないためにいろいろやる人もいるし、何らかの形で上昇志向を顕現するために複数のボディーワークをかけもつ人もいる。

しかし整体法はそういった方向性とは反対、というかむしろ裏側にある気がする。

「何かやる」ということの限界性を味わった人が、「何もしなかったらどうなるか」という考えの転換によって最後に行きつく場所がある。昔から「真理」とか「自然」というのはそういうものではないだろうか。

老子の「つま立つものは立たず」というのが短いながらも言い得ているが、人間立つにしたって、無理につま先で立つより普通にかかとを使って立てばいいはずだ。

余分な気張りは始めのうちこそ充実感があってよいかもしれないが、そういうものは何年何ヶ月と続けられるものではない。

まあどんなボディーワークでも楽しみでやっている人に横槍をさすのも無粋だろう。しかしはたから見ているとあまりに不自然なことをやって、かえってバランスをくずしている人がいるのは否めない。

そんな人でも無意識のレベルではその「違和感」をどうにかしたくて整体法に活路を見い出そうとしているようにも思えるのだが‥。

そうは言いつつ寄り道、回り道、振り返れば一本道という言葉もあるくらいで、何をやろうとやがては肥やしになるのが人生だろう。

ともかく自分が親しんできた整体法は他の多くのボディワークとは立ち位置が違うと思う。

何でもいいから手当たり次第いろんなことをやろうという鼻息の荒い人には、まず深呼吸して彼の足元を点検してもらうことにしている。それも頭に血が昇り過ぎているとわからないのだが‥。

まあ何にせよつま先立ちは続かないし、自分の歩幅を忘れたら歩きつづけることもできない。どんな人間でも自然からは逃れられないのだ。

ボディーワークをやめたら、どうなるのか‥。やるだけやってクタクタになったらやがてはそんな気持ちにもなるだろう。

限界まで疲れ切り、欲も得も完全についえた人が最終的に落ち着く場所が今の「いのち」だ。最後の砦は絶対にあなたを見捨てることはないのである。