客観性と論理性

野口整体の最大の強みは創始者野口晴哉の「主観」だと思う。

整体法は気の遠くなるほど膨大な臨床体験によって帰納的に編み出された「人間学」である。そのため現実から遊離した「学説」とか「観念論」が入りこむ余地はない。

つまり「私が見てきた人間はみなこうなっていた」という純粋な体験記であるために他人は反論のしようがないのだ。水をかけたら火は消えました、といっているようなものである。

それ故、「なぜそのような結果になるのか」という科学的な論理性や客観性は今だに乏しい。

これに因んで野口師による「説明は30年後誰かがやってくれるでしょう」という口述の記録が残っている。しかし没後40年経った現在、研究者がほとんどいないせいもあると思うが、体癖論などを一つ考えてみてもなぜ腰椎の重心位置と感受性がこうも深く関連しているのか、依然として説明はつかないままである。

せいぜい師の後継者たちが同じように「うん確かに、そうである」という体験的事実を獲得し得るに留まる。

だからどうしても野口整体関連のコミュニティに属さない「一般の方々」との溝は埋まらない。

わたし個人の目標としては、稀代の人間探求家によって残されたこの目に見えない技術・論理体系に、ある程度の公共性を持たせたいと思っている。

そこで、分野は違えど「人間の心」という極めて主観の横行しやすいフィールドをアカデミズムに組み込んだ、「精神分析」に範を求めようとしているのだ。

これは相当な大仕事だが、「非科学的で不可解なもの」として嫌厭されがちな整体法に対する世間の評価を少しでも覆せれば上出来である。

とはいえ、一応の大卒で卒論もギリギリ通過した程度の自分が、アカデミズムのスタンダードをどれほど身についているかというと、それはそれは酷いものである。

そんな理由から最近大学の恩師の論文を毎晩少しずづだが呼んでいる。論理性のなんたるかを一から勉強し直しているのだ。そして以外にこれが面白い。

実際やることは他にもいろいろあるのでかなり遅々とした歩みだが、一日一歩を地で行こうと思っている。