波動を思う前に

ある時、僧が趙州に尋ねた、「私はこの道場に入ったばかりの新米でございます。ひとつ尊いお示しを頂きたいと思います」。すると趙州が言われた、「朝飯はすんだかい」。僧が言った、「はい、頂きました」。すると趙州が言われた、「それでは茶碗を洗っておきなさい」。僧はいっぺんに悟ってしまった。(西村恵信訳注『無門関』岩波文庫 p48 無門関第7則 趙州洗鉢より)

※趙州・・・趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778年 – 897年)は、中国唐末の禅僧。Wikipediaより

今日は午後から陽の光がさしたので、仕事の合間に家中の換気をした。

数日にわたる長雨で建屋に湿気と澱みが籠っていたのだ。

巷でよくいう、掃除をすると波動が良くなるというたぐいの話は疑わしいと思いつつ否定もできないでいる。掃除が綿密にできている時ほど仕事の成果もよく上がるからだ。

そもそも「波動」という言葉が何を意味しているのか曖昧な点も多い。自分としては「気」とか「勢い」に類するものだと想定している。

去年の11月に総持寺の催しに出かけた際、百間廊下という長い廊下を初めて見た。ここを修行僧が毎朝雑巾掛けするというのだが、廊下の無言の光沢が禅とは何かを雄弁に語っていた。

「飯を食べたら茶碗を洗え」という禅の示唆が醸し出すように、波動がどうであろうと住家はきれいがいいに決まっている。

目に見えないものも、実はみんな目に見えている。

精神、即、肉体。心身は不即不離といって相違ない。掃除をした時、いったい何が清められるのか、改めてよく考える必要はないか。自分という活動体がどうなっているのか、本当に見極める必要はないか。

よくよく参じ、真摯に取り組みたいところである。