学ばない技術

昨日の話の種には出典があって、原ひろ子著『極北のインディアン』で紹介されている「ヘヤー・インディアン」という狩猟民族の文化に因んでいます。このヘヤー・インディアンは、「教える」、「教わる」、「学ぶ」という概念がないそうなのだ。

現代型の「教育」は、必ず「教える」ということとセットです。「教える、育てる」ですから。でもね、野口先生の時代にはすでに、「いまの教育は、〈育〉が抜けていて、教教だ。」と仰っていたそうです。教えてばっかりだということです。さらにすすんでくると、「教えられてないことを勝手にするな」とか言ったりもしますね。

そうすると良い面もあると思うんです。まず教えれば一定のところまでは「早く」行きますから。何より教育する側にとって都合がいいのでしょう。指導する側から言えば「扱いやすい人間」ができるので、特に戦後そうなったんじゃないでしょうか。ただそれが個人個人にとって良いかというと、利便性の影には当然、弊害もあるでしょう。

教わったということは「自分で考える」というプロセスが抜けるわけですから。ちょっとちがう角度から攻められたら、もうそれで対応ができなくなってしまう。

ところが、最初のヘヤー・インディアンのような覚え方で行くと、自分で「できた」と同時に「どうしてか」も判る、そういう根っこのある理解になります。だから指導者というのは、相手がどうしたら「気づける」かだけを考えて、そのための最高の環境を作ることが仕事と言えるのかもしれません。場を作るのが仕事ということですね。ちょっと今日は短めで。