その昔読んだ本で、「マージャンというのは、いい大人がタバコの煙にまみれて徹夜をしたりするので、全く亡国の娯楽だ」と書かれていた。
今はそのマージャンは脳に良いからといって公民館なんかでお年寄りが習っていたりするから、どんな説も長期的に見れば全ては仮設と思っていい気がする。
現代でいうと携帯電話というのが人間存在を危機にさらしているのではないかな、と僕は勝手に思ってます。どんな製品にもプラスとマイナス、功罪、二つの顔があるのが普通だけどね。
例えばインターネットを駆使して何千人もデモに集まるような世の中を50年前とか、30年前でもどれほどの人が想像できたんだろう?
それはそれで便利な世の中でいいじゃない、というふうにどうも楽観視ができない・・。とかいうのは時代錯誤的で、自分だけなのかなぁ?
野口整体という世界にひたっていると、人間というのは魂の奥深いところでつながっているのだというユングの仮説がなんとなく理解できる。
命というのは命あるものとつながりを持っているから生きていける。捕食とか、スキンシップも基本は「命あるもの」がその対象だ。
「他の生命とつながりを持ちたい」というのは全ての生命が持ってる共通の欲求だろう。携帯電話だって多くの人にそんな欲求があるから一定の利用者が獲得できているんだろうしね。
もしこの携帯電話というものが世の中からなくなったらどんな世の中になるだろうか?と考えるとわたしにはどうしてもそれが不便でつまらない世の中になる、というようなマイナスの方へは想像がはたらかない。
もっと人と人がつながり合おうよ、とお互いが相手を慮って、人間を大事にするような、そういう気のつながりを求め合うあたたかな世の中が思い浮びます。
商売なんかでも、人と「会う」ということの重要性は増すだろうし、納期や約束を守る、という信頼関係も今よりもっと大切になってくるはずだ。
意思や言葉の伝達は人間の行為の中でもっとも神聖であるべきなのに、今や「ゆとり」も「間」もなく、絶え間ない意思の応酬にアタフタしてて、子供の心が育つような「間」も失われている気がする。
チャップリンのモダンタイムスの時点で人間の機械化という予兆はあったのかもしれないけど、今の人間は何やら機械以下のおもちゃに成り下がったかのようにも見えなくもない・・。(ある条件を与えればそんな状態は脱する、とも思ってるけど)
今となってはこの便利でライトな通信手段の蔓延、定着というのは逆らえない巨大な潮流となっているんだろうけどね・・。
電車に乗ると正坐はおろかイスにすらまともに座れない大人がうつろな目でケータイ電話をいじってる姿は、亡国病というのを目の当たりにしている感覚だ。
わたしは、身体に対する畏れと、人間賛歌の情愛が混在している、「野口整体」のような実践哲学がこれからの世の中には必要なんだ思っています。
開業届けを出す前から、「腰から日本を立て直す!」と言い続けているんだけど、共鳴してくれる人は意外といてくれて励まされつつやっている。
生きてるうちに自分の力を出し切りたい、とか、この国を守りたい、とかそんなこと考えながら仕事してます。
そして読んでくれたあなたに、「ありがとう」と言ってみる。^^