今日は七夕のことを書きます。
受付表には「なりたい自分の姿」を書く欄があります。これがないと身体が変わっていかないからです。目標を一つに纏めて氣を集めるから、どうやら治っていくみたいです。整体とは、命の要求を叶えるための身体です。
勝ち組負け組みという言い方は少しギスギスして好きではないのですが、人生の成功を分かつのはただ一つ、気の統一といいますか、心の集中密度の違いです。・・と思います。
人間の能力は気が統一されることではじめて「ちから」になります。今までできなかったこともできるようにもなります。幸田露伴の努力論という本には「人、二気(ふたき)なれば即ち病む」の一説がありますが気が目の前のことになく、あちらこちらに散らばってしまうと、身心の健やかさが失われます。その人らしい美しさも輝きもなくなります。
でも一瞬、一点に集中すると目の前の現象が全て変わってしまいます。そんな風な心の訓練法の一環として、野口先生は七夕祭りをやっておられたのではないでしょうか。
以下、野口先生の潜在意識教育法としての『人間の願い ― 七夕祭にて ―』から抜粋して引用してみます。
私の昔経験したことは、耳の聞こえない人がいて、神経性のものだから治らなと言われたという。治らないといって放っておくのもよくないと思ったので整体指導したら、聞こえるようになってしまった。すると神経性のものだから治ったのだと言う。私にとってはどちらでもいいことで、ただ聞こえるようになりさえすればそれでいい。私はその人の裡に何かを聞こうとする意欲を惹き出しただけなのです。・・・<中略>・・・昔から奇跡的変化と言われていることの多くもこれと同様で、心が動員された結果なのです。
願い事は言葉を口にだして、それからそれを紙に書いておけばよいのです。言葉を紙に書いただけでは、七夕まで届きません。一生懸命心を込めて、気を集めて言うとそうなるのです。人間が気を一つに集めて心を凝らすということは、決して無能無力ではないのです。実際に、注意を集めて願いを込めれば、どんな願いも叶うのです。
過去から現在まで、人間はいろいろなことを切り開いてきました。机がここにあるといったって、最初からあったのではない、最初に空想があったのです。出来上がった机の空想が最初になかったら、いくら木を切ったところで机はならない。初めにいつでも空想がある。そして言葉がある。この順序さえしっかり踏んでいけば、願いは叶い、人間の世界はもっと大きく広がる。人間はそういうようにできているのです。
近頃、幼稚園に行っている子供まで、目の輝きを失っているのが多い。小学校へ行くともっと多い。教え込まれて、自分の欲求を見失ったからだと思うのですが、子供がそういうようではいけない。もっと、皆さんで力を合わせて、子供の目が輝くような、ついでに自分の目も輝くような、自分の周囲に目の輝いた人ばかりになるような世界を造ろうではありませんか。そうすれば本当にもっと活き活きした活発な世界になる。
今、世界中が核兵器に怯えて生活しています。だからといって理想を失ったなどというのはおかしい。目の輝きというのは核兵器を爆発させないだけの力があるものなのです。人間の心は水爆より、もっと力があるものなのです。
<以上>
ほんの200年前は夜になったらどこも真っ暗でした。でも今はネオンもイルミネーションもあります。これも最初に空想があったから、ですものね。人間が最初に心のどこかで望んだ世界でしょうきっと。いつだって技術が生まれるのは空想の後です。エジソンの白熱電球も最初に空想があったはずです。ケータイ電話なんか江戸時代の人が見たら、ね。
そして原発もできました。福島から40年間東京に電気を送ってくれました。そして今また新しいエネルギーが求められる時代が来ています。もしかしたらエネルギーの大量生産、大量消費の輪から抜け出す世界がもう近くにあるのかもしれません。
人間は失敗する生き物です。そして失敗のあとにはいつも学びと進歩の歴史がありました。人間が心を鍛えて活発に要求すればまた新たな空想が生まれて、そして進化して、きっとみんなでまた豊かに育っていくと思います。
こんな風に大人になっても、いや大人ならなおさら生きてる限りワクワクした方がいいに決まってる。プレゼントをくれるサンタクロースも相当魅力的だけど、今どきアナログアイテムの短冊に夢を託させてくれる七夕さんも粋である。
野口先生流の短冊の書き方は願い事を書いて、言葉に出すこと。そして書いたことを人に言わないで、自分もすっかり忘れること。その際に「○○になりますように」だと「これは実現しないのだ」、という逆の空想が育ってしまうので、書くときはかならず「こうなる」「こうである」という風に完結するように書くのだそうです。
整体とは夢を叶えられる身体です。今年は紙と筆を用意して、あなたも書いてみませんか?