独立と責任

少し前のニュースになるけれども、小学五年生の男の子が体育の時間にマスクをつけて持久走をした直後に亡くなったというではないか。

日本は責任の追及を大の苦手としている。もしかしたら本件の責任の所在も宙に浮いたまま風化していくかもしれない。

小学校の児童にマスクの着用を義務付けたのはどこの誰なのか、はっきりしてもらいたいものである。痛ましい事件に直面しながら「再発防止に努めたい」では済まないと思うのだが。

実際事件後にどういった話し合いが行われているのかは知らないけれども、どんな裁定が下ろうともご両親の気持ちはどうにもならないはずだ。

冷静に考えれば苦しくなったらマスクなど外せばいいだけの話である。しかしながら、社会情勢の無言の圧力を前にたったこれだけのことができなかったのかもしれない。

ひょいとつまんで口元から布一枚ずらせなかったことが生死を分けた、といっても過言ではないだろう。小5の児童に自己責任を匂わせるのは非道である。

ところでドイツではマスク着用義務に従わなければ罰金が定めれれているそうな。これはこれでちょっとおそろしい反面、責任の輪郭はくっきりする。その分だけ国民も軽快に行動できるかもしれない。

真実の追求よりも「協調性」が優先される日本に生きるなら、周りが何といっても「これはおかしいのではないか」と思ったら、自分の責任で論理的に考え、発言し行動できる力を子どもの内から養っておく必要があるのだろう。

現状の学校教育は協調性を学ぶことに重きを置いているようだから、自分で考え自分の責任で行動していく独立人を待ち望んでも難しいように思われる。

そうなると小さな子どもの命を守るのはやはり親の務めである。ただ単に周りがそういっているのだから…といって、曖昧な正義に流される生き方を見せていると、これからの世の中は思わぬ危険につながるかもしれない(思い返せば戦前・戦中からそうだったかもしれないが…)。

協調性はもちろん大事であるけれども、これのみの教育では片手落ちになるだろう。自由と独立、責任といったことも大人の一人一人がその意味を吟味して行動し、自らが範とならねば独立した人間は育たない。

子どもを導く前に大人自身の在り方を点検する必要をつよく感じた次第である。