ニューズウィーク日本版に掲載された大江千里氏のコロナワクチン体験記を読んだ。なかなか興味深い。
ニューヨーク在住の同氏がワクチンを打った後の反応について時系列で細かに綴ってある。摂取した晩に重度のアナフィラキシーショックで苦しんだが、免疫抗体がなくなる3ヶ月後には「もう一度受ける」と結んでいる。「科学を信じる」からだそうだ。
人物としての大江さんは昔から好きだが、科学に対するこのような態度は科学的であるとは言い難い。科学はイデオロギーではないのだから、もとより信じたり疑ったりするような対象ではない。事実の分析を積み重ねて外界の理を実証していく態度であり方法論なのだ。
公平かつ客観的態度で検証した結果「そのことはそうなっている」ということが判る、ただそれだけのモノである。
だから実証主義の科学を「信じる」という言葉には違和感を覚える。その背後には大自然の複雑性に対する怯えや不安があるようにも思える。人は本当に信じている事に対し、わざわざ「信じている」とは言わないものだ。
因みにこれもよくあることだが、既成の科学に実証された事だけを信奉して未科学を否定するという態度も非科学的である。これは疑似科学というべきで、似て非なるものだ。
しかしこうしたあり方は現代の主要先進国と言われる国々のスタンダードではないかと思う。
未来へ向けて実証的なデータを集めるために、今生きている人間の命を未知の危険にさらす。こういう蛮行が「医療」としてまかり通っているところに科学至上文明の陥穽がある。
アメリカはヨーロッパの風土から合理主義と開拓精神が凝縮されて出来上がったような国だ。合理性を過剰に優先すれば、いきおい感情や情動は下位に敷かれやすい。しかし感情は意識されなくとも、潜在意識化において力強く人間を動かしていく。
科学を否定しているのではない。見えざる感情につき動かされて科学が真の科学性を失っていることに気づく必要を説いている。
生きる、死ぬ、こういうことに動揺があるうちは物事の実態がその通り見えない。研究方法と結果をみる目にどうしてもバイアスがかかるからだ。もっと冷静な心を養い、事実を正確に見据えることで科学は真の力を発揮する。
すると神秘主義と科学も矛盾しない。「自然の法則が神であった」というアインシュタインの気づきは2500年前の釈迦の悟りと何ら変わらないのである。「事実以外に権威はない」と言ったヒポクラテスも同じである。宗教と科学は真理に向かう二艘の船だ。これからは科学の利点と限界性を認めて、これを補完するような世界の捉え方が新たに開拓される必要がある。
今はコロナから自然界の複雑性と合目的性を学ぶことができる。心を鎮めて冷静に見れば、そのミクロとマクロの動向に整然とした宇宙の息を感じられるかもしれない。
スタートはいつも自分の感覚から出発すべきである。冷暖自知とはまこと古人の至言で、主観を抜きにした客観性は時に人間を破滅の方向へと走らせる。逆に客観性を欠いた主観は第三者を無視した自分だけの世界に埋没しやすい。
戦後の日本は客観性に偏り過ぎたと言える。精度の高い主観を再建すべきで、それには身体性が鍵となる。意識を静めて自分の裡なる感覚を大事にする生活を心がけたい。