夢は眠ってから見るものではない、起きている時に見るのが本当の夢である。
出典元は知らないが、どこかでこういうフレーズを聞いたことのある方は多いのではないだろうか。
この場合の「夢」とは目標であったり、人生の抱負のようなものを語っている場合がほとんどである。
たしかに自分で自覚できる「意識」の中で「こうなったらいいだろう」、「これをやるゾ」と思索し、これに沿って行動していくことは一見してやる気や活力のもとになりそうだ。
しかし努力や勤勉がウリの仕事人間のような人が、突如として「うつ」になったり徐々にやる気を失いやがて会社に行けなくなるような場合もある。
このような事例を丁寧に考えると、意思の努力や理性で命令する力というのは期待に反して意外とその限界値は低そうである。
心理学では一様にこころの広大さを説く。その中でも実際に人を動かしていく「意欲」のようなエネルギーは「眠る」ことによって無意識から意識の方へと充填されていくと現代では考えられている。
つまり本当の意味で自分に活力をもたらし、現実化しやすいのはやはり眠っているときに見ている夢(無意識のヴィジョン)の方だと思われる。
整体法では起きているときに思い浮かんだことをどしどし行動していけば、眠ってから夢など見ないのだと説いているが、何かと制約の多い現代社会においてその様な生活を実現することはなかなか困難である。
現実的にはやはり睡眠時に見る夢(覚醒時に覚えているその断片)から自分の要求や願望をうかがうように洞察し、その時のヴィジョンやそこから湧き上がる心のエネルギーを微量に生活の中に融け込ましていく方がより自然で賢明な態度ではないだろうか。
昨年くらいからこんな風に「夢」に関心を持ち始めたせいか、臨床の場でクライエントさんが夢について話してくださる機会が増えてきた。
中には「夢占い」などで事前に情報収集をしてからカウンセリングにのぞまれる方もいらっしゃるくらい、ツボにはまると夢の分析はなかなか面白いものである。
「夢分析」は心理療法の分野ですでにその有効性が認めれて久しい。しかし実際の治療に活かすには援助者(カウンセラー)の力量はもちろん、クライエントの「洞察」の態度がミソだろうと思う。
「夢を分析する」といった場合に、「今朝見た夢は‥」などとあれこれ思案して「意識的に」探っていくよりも、覚醒時にあえて半睡状態のような「ぼんやり意識」を再現して、夢の続きを見るような態度になってみた方がむしろ心のエネルギーの対流がはかどるようである。
インターネットの夢占いや、夢に現れた事物が象徴するもの‥、といった情報もわりに有益なのだが、これらをさらに有効活用するには上に書いたような「夢うつつ」な心もちになって、「〈わたし〉は『私』に何を訴えたがっているのか‥」に傾聴するとよいと思う。
夢の中には昼間の覚醒時に意識によって切り捨てられた思念や様々なヴィジョンが浮かび上がり、自我意識の強固な外壁によって隔絶された『私』の偏りを取り除こうとする。
これにより幼児のような円満で自然のこころへと回帰させようとはたらきかけてくるのである。
つまり『私』にもっとも適したカウンセラーは「夢」として現れてくる〈わたし〉自身なのだ。
このように夢によって行われるこころの自然治癒はときにはやさしく、ときには戦慄をともなってなされるので、その迫力に『私』はときどきびっくりされられる。
しかしその(夢の)言い分をじっと聞いてやると、そういう戦慄を生んだ原因も過去の自分の体験や行動に起因することに気づかされることもある。
雨降って地固まるという古語が示すように、つよい動揺をともなう「気づき」を通過すると、やがて心の対流の波は静まり落ち着きへと向かう。
そしてこの落ち着きが安定し、安定が固定となりってやがて鈍りへと移行する頃にまたこころの内面や外界への適応がむずかしくなってくる。
するとまた夢は自我の再適応を図ろうとして、睡眠時のような意識の活動水準が下がったところを見計らい『私』に語りかけてくるだろう。
このような破壊と再生の繰り返しが滞りなく、円滑に行なわれていればその人は健康、と言えるのかもしれない。
夢はあなたの中にいるよく知らない〈あなた〉との貴重な通信手段なのである。
そして夢から覚めたときのあなたは時々その内容にびっくりして思わず着信拒否したくなるかもしれない。
しかし夢におどろいたいうことは、それだけ現在の生活様式とこころの深層が求めている生き方との間にギャップがあることを物語っている。
そのような場合、もしも余裕があればばそのままもう一度ぼんやりと「夢うつつ」になって、その訴えにじっと耳を傾けてみてはどうだろうか。
うまくいけば、現実の行き詰まりや意識の閉塞感を拓くためのヒントを夢のメッセージから汲み取ることができるかもしれない。