整体は「たましい」に取り組む道だ。身体が整うことで生活の中にいのちの要求が現れる。
結局のところ病症が平癒するのも、たましいへと通じる無意識の扉を開くからである。
裡の要求に従がい、心に滞ることなく行動し、生命を全うする。
「言うは易く、行うは難し」なのだが。
分析心理学のユングが自身の中に生きるもう一人の人格に「No.2」と名付けたものは、たましいの具現者としての第二の「わたし」のことではないか。
整体の場合は「裡の要求」という表現がよく使われる。
裡の声を聴き 裡の声に従がえ 外の声に惑わされるな いつも裡の声の聞こえる心に生きていなければならぬ 外の声に耳を傾け 心を騒がしていると 裡の声は聞こえない ただ裡の声に生きていることだけが生きるものの歩む自然の道だ 迷うことはない
斯くの如く生きるものだけに生命は輝くのだ(野口晴哉著『風晴明語2』全生社 p.71)
裡といったり、たましいといったり、No.2といったりいろいろだが、つまるところ「私」の中にはわたしの知らない誰かがいるのは間違いないようである。またフロイトはそれのことを、「es(それ)」といった。
「それ」とのつながりを保ちながら、なおかつ「それ」に支配されず、適度な距離を測りながら中道を生きる態度のことを、「敬虔」と、こう呼ぶのではないかとわたしは思う。
自分で自分に惑わされてはいけない。
自然生命に生きることを望むものは、いつも自身の活動の照準を自己の中心に合わすべきである。
坐禅や活元運動なども、意識を一時的に休止させるための方便なのだ。
己を大事に思う気持ちがあるのなら、日に一度、自分を離れて、「いのち」そのものになろう。
自分を救うものは、「いのち」をおいて他にないのである。
人はただ、生きるべきだ。
これより他に道はない。