健康までの距離

最近は仕事の合間に岩波文庫の『無門関』をめくっていることが多い。

もとはといえば大学生の時に手塚治虫の『ブッダ』を読んでから禅に興味を持ち始め、以来新旧問わず関連書籍に目を通すのが習慣になっている。

禅は言葉ではない「不立文字」と謳っておきながら、現代は禅関連の出版物がもっとも多いというパラドックス状態にあるそうだ。

理由を説明すると、文章や言葉では絶対に禅の核心にはぶち当たらないので、結果的に核心の周辺に言葉がどんどん増えていく。

例えば「カレー」というものを言葉で説明すると、「液状で‥」、「辛くって‥」、「でも辛くないのもあって」・・とやっていったらいくらでも言葉は湧いてくる。

カレーの本を100冊読んだって絶対にカレーの味はしないわけで、ところが実物を食べてしまえば「ああなんだ、これのことか」で決着してしまう。

これに比べると「禅」とか「悟り」とかいわれるものは実体があってないものだから、だいぶ勝手が違う。自分が初めから悟りの真っただ中に生きていることに目覚めないかぎり、いつまでも他人の言葉に踊らされてしまう。

しかしよく考えれば「健康」とか「丈夫」、「元気」なんていうものもそういうものと同じかもしれない。

「健康になる」ことを考えている間は自分の中にすでに息づいている健康のはたらきに気づかない。

今を間違いなく生きているのに自由自在にならないのは、生まれてから作り上げた無数の観念のツルで自分をがんじがらめにしているからだ。

よく「常識を疑え、捨てろ」というが、元から捨てるものなど無いことに気づくのが本当の道である。

厄介なのは「無いことに気づく」とその瞬間には、「何にも無いという〈こと〉」を自動的に掴んでしまうのだ。これを「鑑覚の病(かんがくのやまい)」という。

もう少しわかりやすく言えば「俺は悟った病」とでもいうようなもので、そういう風に良くも悪くも自分を見ている自分をひたすら落として落として、落としていくのが悟後の修行と言われる重要なプロセスである。

その過程に在る絶対の現在が「修行」という名の未完成の完成なのだ。

『無門関』の経論にも「(修行に)終わりはない、終わってしまったらそれこそオシマイだ」という内容が繰り返し出てくる。

この本に限っては誰のためでもない自分のために読んでいるのだが、野口整体の道に入ったときから「衆生済度」は永遠の誓願である。

非力を承知で非力のまま、生身の力でやっていくより他ない。そういう無謀な気持ちにさせてくれるので『無門関』は座右の書になっている。