問(60) 坐禅中雑念が次々と出てきてどうしようもない時がありますが、そういう坐禅でも宜しいのですか。また雑念とはどういうものですか。
答 うんそれで良いのです。それが今の様に、皆雑念、雑念というて、自分で考え過ぎているのです。教えられたものを、出てくると直ぐそう思うのです。それが雑念なんです。
…<中略>…一寸出ると、アアこれが煩悩じやというて、そういう考えを以て取り扱う。そしてそれを無くしよう、無くしようと思うから、それで間違うのです。(井上義衍著『玄魯随聞記』龍泉寺参禅道場発行 p.77 太字は引用者)
さて、さらに昨日から引きつづきである。「雑念について」。ちょっとくどいかもしれないけど‥。
活元運動は「あたまの中をポカンとして自然の動きにまかせる、それだけでよい」ということになっている。
そのポカンが誤解されやすく「なかなかポカンとなれません」とマジメにがんばる方がいるので、「もっといいかげんでいいですよ」というアドバイスをすることもままあるのだ。
上の引用は坐禅の話なので方法論がことなるが、まあ大事なところは共通している。
つまり、いわゆる雑念だとか、煩悩だとかいうものは放っておけばいい、という。
ここでまた「放っておく」と聞くと、「放っておこう」とがんばる人もいるのだが‥。
ただしこういうことも言える。
坐禅と活元運動の両方を経験した立場からいうと、精神状態は微妙にことなる。
活元運動のほうは個人のからだの特性や状況、疲労度合に合わせて適度な運動がでるので、自分の体験としては統一状態、というか良い気分に入り込みやすい。
いや活元運動の優性を説いているわけではなく、坐禅の場合は生活全体が禅という態度で行われないと、一般の方が趣味的に行っているだけでは意識が静まりにくいと思うのだ。
もう一つには「活元運動が出ない」とか、「いろいろ考えてしまいます」というひとは、そもそもがあまり回数をこなしていない初心者の方が圧倒的に多い。
ひとつには「慣れ」、なのである。
だからまあ、いろいろ考えているよりも繰り返し活元会に参加して、意識も身体も気持ち良くとけてなくなっていくような感覚をあじわってほしい。
だいたい4~5回もやれば、動きもこなれてくる。
興味のないひとにまで教えることは非常にむずかしいので、そんなことまではしないけど、活元運動は覚えておくと本当に便利なのだ。
便利というか、本来なら必須のものと思っている。
だいたい月に一回か二回、活元会で行うとして、それを一年くらいつづければからだの調整機能は安定するし、意識が騒がしいひとならだんだん落ち着いてくる。必要なときに運動が出るようにもなっているだろう。
きっとそのころには雑念とかポカンとか、そういうことも忘れていると思う。整体というものはあたまの勉強だけでは不充分で、環境とか場の雰囲気にひたることで少しずつからだに馴染んでくるものだ。
やり方さえ教わったら、あとは気の向くときにどんどんやっていって欲しい。1年もするころにはいろいろな恩恵にあずかれるはずだ。