「子供って結局親のキャパは超えられないんだなって思いました。」
とある教育関係の方からこんな言葉をうかがった。
私は私で毎日身体を通じて人の生きる姿にふれているので、「ああ、一面的には確かにそうだ。」と共感した。
自分ではそれまでうまく言語化できなかったけれど、いつも心の中でぼんやり捉えていたもの。
それが「親のキャパ」という一語で形を与えられた気がした。
少し視点はずれるけど、気づけば最近は「子を見れば親がわかる」とか「親の顔が見たい」などという言葉も余り聞かなくなったと思う。
もしかしたら戦後民主主義、自由主義の流れで、子供の人格は親が責任を持って育てるもの、という気風が薄らいだせいかもしれない。
仮にそうだとしても親の影響力については誰もが一度は考え、突き当たる壁だろう。
NHKドラマの「オカムス」が反響を呼んだのも、誰の中にもある潜在的な親子関係の機微みたいなものを微妙に刺戟したのではないかと思う。
何にせよ、多くの場合人間は最初に「親」という見えない枠内での成長を余儀なくされる。
その枠は大きさも形態も様々で、四角四面というのもあるだろうし、円いもの、とげとげしたもの、無秩序にうねったもの、などなど、十人十色、千差万別なのだ。
だからこそ人間はその数だけ固有の生き方があるし、
人生のドラマだってそこにある。
その中で子供と言うのは、特に幼年期は無自覚に親をコピーしながら大きくなるのもだ。
実際に「親との関係性」がやがては「病気になる、治る、治らない」ということまで波及してくる。怪我にしたってまた同じことがいえる。
そもそも「身体」というのは潜在意識が具現化したもの、と思っていればほぼ間違いない。
だから…、
本当に「自分の健康とか幸せ」ということに根本から向き合おうとする時、最後は必ず自分の自我が自分の潜在意識と対面(時に対決)することになる。
そしてそこに必ず親の影がある。
これが悪癖として見做された時、しばしば「親を越えよう」という言葉を耳にする。
これはなんとなくわかったような、よくわからないような、いわゆる「思考停止」の言葉だと思っている。
例えば、父(or母)が酒飲みだったとして、
「自分はあんな酒飲みにはならない」といって一滴も口にしない、としたらそれは「越えた」と言えるだろうか。
むしろこれは「反発」という形で凝固し、親の影響下から出られていないモデルの典型だろう。
もしそこで、「親は大酒飲みだったけど、私はあんまり強くないのでほどほどに嗜みます。」と言ったら、その人はこれまでの人生のどこかで、「大変な所」を越えて来ている人なんだと私だったら思う。
そんな時は「越えた」というよりも、
「消えた」とか「抜けた」とか「解けた」
と言った方が自分の場合はしっくりくる。
これは単なる日本語感覚の相違かも知れないけれど、
「越えた」、というのは依然としてそこに何かが「残って」いる。
だから越えたということすらもう忘れてしまって、本来最初にあった自由を得た感を表現したい。
だからそんなものは「もうどうでもいい」というくらいに、サッパリと「消えた」というとしっくりくるんだろう。
その昔中国にいた臨済というお坊さんが禅の妙機について、「仏に逢ったら仏を殺し…父母に逢ったら父母を…」という言葉を残したようにコロしてしまうのだ
これはうっかり理解を誤ると危ういだけれども、
自分の「命」というのは本来、過去・未来、そして現在の一切の関連から離れ切っているものだ。
だから「親が生んだ」というのは間違いなく過去に行われた事実なんだけれども、同時にそれは現在の思惟であって「真理」ではない。
そういう「自分」とか「今」とかいわれる純粋無垢な存在に気が付いたら、そこで一応の「疑念」は吹っ切れた、ということになるだろう。
だから「越えよう」とか「越えたい」みたいに、概念を相手に一人相撲をやりだしたらそれに掴まり、嵌って、泥仕合になる。
そこで世の中の宗教家とか教育者とかカウンセラーとか呼ばれるような人たちが救わないといけないのは、そういう心のシコリに掴まり、嵌っているものを(できれば本人が気づかないうちに)手放してやること、だと思うのだ。
仏道の世界では修行が一定に捗るまで家族・知人との連絡が断たれ、肉親の死に目にも合わせない、という形態の行が残っている。
それはつまり、今まで自分のリミットを形成していた「親のキャパを外すため」に行なわれているのではないだろうか。
キリストですら成熟した後に故郷に戻っても歓迎されなかったのだから、「生まれ」と「育ち」はそれだけ手強いのだ。
ところで「修行」さえすればそれでいいのか、というと時には過度に強硬な修行が自我をより強固に歪めてしまう可能性もあるから気を付ける必要もある。
それとは逆にいわゆる「俗世」といわれる所で生きていても、今までの自分ではどうにもならない難局にぶつかり、気合で親のキャパを打ち砕いて擬死再生の契機を得ることだってあるだろう。
そういう変化の中で、比較的緩やかなものは「成長」と呼ばれ、急激なものは「一皮むけた」とか「化けた」とか「悟り」なんていわれる。
その先にやがて、
親は親、自分は自分、という、
「自立」へ至る道が続いている。
私はそのカギを握っているのが無意識だと思う。
生きた身体と同じように、人間の心には一過性に曇っても偏っても、絶えず全体性を取り戻そうとする「ある作用」が働いている気がするのだ。
コンクリートやアスファルトをめくり上げて伸びてくるやわらかい草のように、顕在意識が起きている時でも眠っている時でも一分一秒、じっとその機を伺いつつ根を張り葉を伸ばしてくる。
その力があるからこそ「もう駄目だ」と思うようなことがあっても、大半は時間とともに盛り返してやがて安全圏まで辿り着き、時にはそこから成長や飛躍にまで発展して行く、ということが人間には起こるのだと思う。
そしてそんな風に自分の中にある、「いのちの力」を信じられるようになったらもう十分だ。どんなお守りよりも心強い。
そうやってずっと考えていくと、親のキャパという外枠によって
自分の力を自覚できる、とも言えないだろうか。
これは蒸気機関と同じ原理で、外圧があるから内圧も存在し「仕事」ができるのだ。
そういう可能性が人間という生物には等しく内在しているのから、この世に興味は尽きない。
だから、
親は越えなくていいし、いわんや恨みごとなんて一切無用と思う。
「親のキャパ」、なんていう見えない壁は、
越えず、破らず、消さずに
「活かす」
そういう視点を持てたら、今までの自分もきっと乗り越えられる。
苦楽は一瞬で逆転する。
やがては「親子」という不自由な関係を、少しずつ高次元で自由な関係性に育てていけるのではないだろうか。
これは「親」に限らず、
自分のキャパを形成しているすべての枠に言えることで、
不自由こそが自由の種なのだ。
摩擦があるから自動車は走るし、抵抗があるから飛行機も飛ぶ。
不自由を活かす力は必ずあなたの中にもある。
そういう力がみんなにあるから、
私も今日まで折れないでこの仕事がやれていると思う。
最初の設問から長くなったけど、この年になってはじめて親子というシステムはよくできているな、と無理なく思えるようになったと言える。
育ての親、産みの親、いずれにしても「親」はありがたいものなのだ。