先日来の医学批判のような話をいつまでもうろうろしたくないのだが、整体を実践するとどうしても周囲との医療的価値観のギャップに悩むことになる。
それもまあよく考えてみれば現代医療があるからこそ整体の死生観も存在意義があると言えるのだから、お互いに因果な間柄とも言えるだろう。
時代性・地域性ともに広い視野に立って世界を見渡せば、原始的な生活をしている部族や社会集団はいくらでもある。そういう地域では「文明生活を見直そう」という整体の存在意義もうすれるのではないか。
日本においては西洋化という潮流の終盤(完成の一つ手前)あたりで整体は産声を上げた。いわば西洋という概念あっての東洋である。何ごともアンチがあってはじめてその価値は高まるのだから、お互い相手を大事にしながら切磋琢磨すべきなのかもしれない。
そうは言っても、知に働けば角が立ち、意地を通せば窮屈なものだ。注射一本、薬一錠飲む飲まないで、いちいち摩擦が生まれるというのも人間の世の中の可笑しさを物語る。
「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」という弘法の言葉もあるように、酔っているものでも自分だけは目醒めていると思うものである。自分自身の目が本当に開いているかどうかは各自が本当に自己の責任で点検しておきたい。
最終的に「自分自身が今どうなっているのか」という、人間は生涯その問題だけなのだ。そう考えれば身体を整えるというその行為こそが、真理へ至るための貴重な導き手あることがわかるだろう。本来指導者は自分の中にのみ在るのだ。
それも普段は無意識層に住んでいて現れない。意識の休息状態(ポカンとすること)の必要性を説くのはそのためである。決断できず動けない時、いつまでも意欲の出ない時には、いっそのこと、そういう自分に一度引っ込んでもらうといい。
上手くすれば自身の内と外、全ての歯車が秩序をとりもどして動き出す。世界は最初から一つなのだ。分断するのは理性であり、それがやめばいつでも同じ「一」が顕現する。道は常に近くにあるのだ。平常心是道とは正に「これ」である。