いのちの理を学ぶ

私は今年八十五歳になるが、野口先生は、老人と呼ばれてよい年齢は九十代になってからで、それまで老人ではない、齢を数えて老い込むな、と言われる。整体は、生命を励ます健康の哲学だからである。この本には、その原理が、わかりやすく説かれている。整体では、治療とか治病とかいう言葉は使われていない。人間は自分の力で自分の症状を癒すので、整体操法者は、その潜在する自己治癒力の喚起を手伝うのである、と。野口先生の衣鉢と伝統を継承し、実践しつつある操法者は堅実な歩みを展開している。ただ、巷間に整体の名を謳う幾多の療術と、野口晴哉先生の整体法とは、よほどの相違があることは、私のこの小文でも、おわかりいただけるのではないか、と思う。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 p.226 解説 伊藤桂一 潜在する自己治癒力 より 太字は引用者)

整体指導を受けるには「自分の力で治る」という意欲がいる

これは理想だけど多くの方は整体に治療を期待してお越しになるのが実状だ

中にはよほどすごい奇跡的な治療法があると思って来院されることもあるけれど、こちらとしては「そのようなものはない」ことを知っていただくのが仕事である

だから本当は「自分の力で治る」という自立心を育てるのが使命なのかもしれない

技術の実体としては「潜在する自己治癒力の喚起を手伝う」ということだが、煎じ詰めればこれは「何もしない」ということに近い

指導者が親切に庇ったり守ったりすることに努めれば、潜在生命力はいつまでも潜在したままである

どのような方法でもいいから、「自分の身体ははじめから自分が保ってきたんだ」ということに気づくことができれば心強い

現代ではこういうことを謳う「整体」も増えてきたけれど、臨床の実際としてはこうした「庇われ癖」とでもい言えそうな医療に対する無自覚な依存体質を払拭することは容易ではないのである

くり返すがそのためには「何もしない」こと、技術らしい技術を振るわないことが技術である

さらに加えると相手にもともと備わっている健康と保つ動きを邪魔している観念を取り払うことだ

そういう意味で整体指導とは心理指導に通じるけど、違うところはそうした心の作り変えを身体の刺激を通じて取り組むところだ

道は違えど目指す所は一つ。

今日も元気よく生きよう。