整体指導は「整体」とは違う

先日「整体師」の方たちとお話する機会があったのだが、改めて自分の学んできた世界とは違うのだなあと、しみじみ思った。

ご承知の方も多いと思うけれど、野口整体が「整体を行なう」というときは整体指導のことを指している。よってカテゴリーとしては「医療」ではなく「教育」になる。

これはルドルフ・シュタイナーという哲学者が明らかにした見解とまったく同じであり、治療技術の究極は健康に生きるための教育となる、という態度である。

だからどうしても同じ「整体」という言葉を介してやり取りをしていると、話が食い違う。

かたや手技療法や治療技術に関心がある、こちらは人間の心をいかに導くかという身体を介した心理技法に照準を絞っている。

だから初回のクライエントと話をするにしても、ここのところを最初に明らかにしてからでないと、同じ土俵に上がって仕事ができない、ということになる。

例えば、この辺りのことに関連する野口先生の講義録を引用すると、

<整体指導法とは>

整体指導法とは、人間の体の中にある元気を呼び起すための技術であります。だから、当然、技術の面から着手するべきでありますが、整体指導というのは技術以前の問題が非常に多いのであります。そして、むしろ技術以前に重要な面が多いのです。

最近は、整体すれば人間は丈夫になり、元気になるということは一般にも知られてまいりました。しかし、整体すれば丈夫になる、元気になるということだけでは、整体指導の目標が達せられたといはいえないのであって、誰もが元気に生きる力を持っているという自分の体の構造を自覚し、その力を発揮するように心掛ける人を一人でも多くすることがその目的なのでありますから、人にやってもらって丈夫になるということではないのであります。…

…それには、一人一人が自分の生きている力を自覚する。自覚してそれを発揮するように誘導していくことが本当だと気がつきまして、治療術という面を全部捨てたのであります。体力を発揮できるように体を整えてゆく。そうすると自然に丈夫になるし、病気があっても自然に経過してしまうし、お産をする人は痛まずに産める。だからと言って、それを目的とするわけではなく、ただ人間の自然の構造に沿って、その持っている力を発揮するというだけのことであります。だから、整体が、丈夫になり、元気になるということだけに使われるのは本当ではなくて、誰もが元気になり、丈夫になる力を各々が持っているのだから、それを自覚して発揮しようではないか、その筋道として整体があるというように伝えなければならないと考えたのでありますが、近頃はそのように伝えられるようになり、そのように動き出しております。…

一人一人が自分の裡なる生命の精妙な働きを自覚し発揮すれば、人の力を借りないでも丈夫になれるのです。これが整体の考え方であります。(野口晴哉著『整体法の基礎』全生社 pp.3-6 太字は引用者)

と、以上のように簡潔に述べられている。

ただし、「一人一人が自分の裡なる生命の精妙な働きを自覚し発揮すれば、人の力を借りないでも丈夫になれる」ということが非常にさらっと綴られているけれども、ここにまた乗り越えていくべき壁がいくつもあるのだ。

身体の精妙な働きを見えなくしているのが潜在意識に入り込んだ観念である。現代人は物心つく前から病院の世話になり、一日生活すれば薬の宣伝を目にしないことはない。

何より、自分を育ててきた保護者や養育者に科学的医療に対する寄り掛かりの生命観がべったりと沁みついている。これが微に入り細に渡って、のべつ潜在する記憶の蔵へアクセスして、自然生命に対する不信感を放り込んできたのだ。

また医療に関する考え方だけではない。

例えば子供でも7、8才にもなれば自分自身に対する見方、いわゆるセルフイメージというものも大枠が確立されている。このような意識の下層部に潜在する自分や世界に関する固定された観念が、いつどのような病気になりどう経過するのか、そしていつどのような人に会いどのように対応するのか、ひいてはどう生きてどう死ぬのかまでを暗に決定づけているのである。

よって「病気」や「ケガ」という表層部の現象に踊らされているうちは誤魔化しの治療ごっこはできても、その根本で煽動している漠とした潜在観念を打ち消さないかぎり、何度でも同じように表層の心を病み、同じように身体をこわす。

潜在意識教育の必要を説くのもこのためであり、これを必要に応じて打ち消すことが整体指導者の務めである。

ここでまた「整体指導さえ」受ければ、容易に健康になれるのかと思われそうだが、ここにもやはり分厚い壁がある。自分を形作っている潜在観念というものが非常に堅固なのである。

またそうでなければ社会的立場や家庭を保ちつづけることは不可能である。よってそういう強固に守られている自我意識を、整体指導という枠の中で微量な刺戟を用いて崩壊させていく。

つまり人為的、他動的に自我崩壊を誘発するのだ。つまり治癒のための破壊である。これによって潜在意識を微量に変性させることで顕在意識の再構築が図られるのだ。

おおむねこのような理論に基づく技法体系によって、はじめて根元的な「治療」という技術を考え、施すことができのである。

いってみれば、世にいう治療とは着眼が異なる。

人間が背負いこむ問題の9割は、この着眼さえ正せば解決したも同然である。これも潜在意識教育の範疇であるが、「いかにして」心の在り様を変えるか、というところに技術がある。技術とはいっても、その本質は「人間力」なのだが。

ただこれだけの説明でも「巷の整体」とは大分異なることはおわかりいただけるのではないだろうか。このブログの常連の方にとっては退屈な内容かもしれないが、こういうことをご存じでない方のほうが世の中には圧倒的に多いことをわたし自身もよく忘れてしまう。

そういう意味で町の「整体師さん」とお話しできたことは新鮮な刺戟になった。定期的に原点回帰して、初心の方に野口法の整体に親しんでいただけるように心掛けようと心を新たにした次第である。