言者不知

自分で言うにもなんだが、最近web上では多少寡黙になったと思っている(対面では相変わらず多弁)。

過去のブログを見ると我ながらずいぶんガラクタみたいなものを書いてきたと思う。読んでる人はごく僅だとしても、それで余分に惑わせたかもしれない。

だったら消せばいいじゃないかという話なのだが、もはや自分の行録になっているので勿体ない根性で放置している。

迷悟一如という言葉もあるけれども、悟り終ってみたら何のことはない、迷ったも悟ったも同時に無くなってしまう。

だからあんなこともあった、こんなこともあった、だがもうどうでもいい、と言うのが本音でもある。

引き合いに出すのもおこがましいが、不立文字を掲げる禅仏教も多くの先達による大小言行録によって現在がある。そして仏教の経論の中には妄言も迷言もたくさん転がっているのだ。

人のふり見て我がふり直せの精神だと思うが、祖師方や大和尚といえども始めはみんな迷っていたのだ。その迷っていた記録も読む人の段階次第、使いようでは役に立つ。

同じ水を飲んでも蛇ならその水から毒を造るし、牛なら牛乳になる。

だから結局聖書や仏典を読んでも必ず「その人の理解」にとどまる。拙稿も読む方の力量に委ねたい。

力のある人なら他山の石でも血肉に変えるからだ。

涼しくなったせいかまた自分の中のモヤモヤを文字にして書きたい要求が出てきた。またしばらくは気ままにポツポツ綴っていくかもしれない。

だいたいは空中に釘を打つような話なので、詰まらなかったら素通りしていただきたい。口直しには『臨済録』が何よりと思う。