整体教育概論

来院される方を職業別に見ると、医療関係者以上に学校の先生が多い。もしかしたら歴代トップかもしれない。

最初はみんな身体の不調の相談で来られるが、問題が消えるにしたがって「整体指導を受ける目的」は多様に枝分かれしてくる。ただ全般的にいって、「痛みが消えたらもう用がない」という人は稀で、当初の問題が解決する頃には「よりよい生き方」を模索して身体感覚の変化と成長を楽しまれる方が多いようだ。

そう言う中でも学校の先生は「教育」というものについて野口整体に何かを求めているような気配がある。思春期の多感な子供と向き合う上で、「どこに向かって、何を示すべきか」がわからないことは職務上大変なことだと思う。

いろいろな先生方とお話していると、法的な制約が増える中で無軌道な子供の感受性に対応しなければならない実状が伺える。20年前に自分が通っていた男子校には、ほっぺたが充血するほどビンタをかます教師がいたが、これも今となっては善悪とか時代性という言葉だけでは片付けられない話だ。教員の方々とは最終的に「結局、教育って何でしょうね」という事に話が及んで、お茶を濁して終わることが多い。自分自身が仕事をする上でも、この「教育」の概念は絶えず更新し続けている。

「野口整体」の出所にあたる「公益社団法人 整体協会」は文部科学省の認可を受けている体育団体である。その初代理事長であった野口晴哉先生の言葉には次のようなものがある。

整体ということを突き詰めれば、健康に生きるための教育ということになる。…教育ということ、心に発し、形に至る。しかし人間の心、その現れとしての行動は複雑不合理で、同じ事に出会って、泣く人もあれば、笑う人もある。
教育の前提として、人間の動きを丁寧に観察し、そこから出発して導いてゆくのでなかったら、教育は単なる知識の着物になってしまう。あく迄、人の本性を伸ばすことを考えねばらなぬ。(『風晴明語2』より)

つまりは「個人を丁寧に見る」ということが教育の前提条件で、この「見る」という力がない内は、相手に何を施したらいいのかが正確には判らないはずだ。「何を教え、何を育む」かというこの「何」が判明しないかぎり、行き当たりばったりの主観に頼るためにぶれてしまう。

もしかしたら、その「何か」を満たしたくて野口整体を学ばれるのかもしれない。先の「教育の前提として、人間の動きを丁寧に観察し、そこから出発して導いてゆく」ということが、一般の教育現場には存在しえない。こういう事は各先生方が人生経験を基にした個人的裁量から「やってもいいし、やらなくてもいい」という範疇のもので、むしろ組織としてはもっと団体の存続や利潤に貢献する行動をして欲しいというのが「本音」ではないだろうか。

そういう点で知識と意欲、情熱のある先生ほど、「人間はみな同じという前提で教え、出来不出来を数値化する」だけの教育には早々に失望するようだ。その結果「教育って何?」という葛藤の中で呻吟しながら、半ば諦めて就業するようになる。少なくとも「義務教育」に象徴されるような、知識の切り売りだけが教育の真の姿でないことはできるだけ早く認めた方が先に進める。

しかしながらどんな職業でもそうだが、「自分のやりたいことを無制限にやれる」ということはない訳で、そこで如何に独自の思いを行動化していくかということが社会生活の醍醐味とも言える。煎じ詰めると「今この瞬間に自分自身が活き活きする」ということ以上の教育はないかもしれない。そこに着眼が定まれば、何十年と言えど意欲を維持できるのではなかろうか。

立場的にもう一つ加えるなら、やはり生理的感覚に基づいた「体育」を無視して人を育てることには限界があると言いたい。少なくとも正坐が体罰として認められるような価値観である内は義務教育の質的向上は難しいように思う。公人である以上「公」の価値観に適う人間を育てなければならないのだから、自分自身が本当に納得のいく教育がしたければ松下村塾のようなゲリラ的手法が一番現実的かも知れない。最後は自分が自分に諭しているみたいな気がしてきた。