情報の価値

つい先ごろまでyoutubeのゲーム実況を観るのが唯一の楽しみだったのに、年明けぐらいからいろんな発信者が急に増えだしてなんだか一気につまらなくなった。つまらないだけならいいが、さすがに昨今のウィルス情報の氾濫には気分が滅入るのでしかたなくサイトを開くのを控えている。

いまの世の中は誰もかれもが情報を欲しているようだ。仏教では貪・瞋・痴を苦しみの根本原因として戒めるが、その最初にあるのが貪、すなわち貪りである。

何も服が欲しいとか車が欲しいとかいう物欲だけが貪りではない。どっかに面白いニュースはないか、誰か気の利いたことを言わないか、あの人はこー言った、だがこっちの人はこう言っている、はたしてどっちが本当なんだと延々やっている。

そうやって自分のいまの実生活を自ら捨てて絶えず駆けずり回っていたらそれは立派な貪りである。そうこうする間に自分の目の前の現実の方がほったらかしになり、ぐしゃぐしゃになっていくではないか。洗濯か掃除でもしてた方が近所迷惑にもならないし、はるかに生産性がある。

はっきり言えば「情報」など最初からどれも偽物である。群盲が象を撫でる例え話があるけども、人間というのは誰も彼もが自分の立ち位置から見たものに勝手な見解をつけて語るようにできているのだ。

例えば試しに茶を飲んでみればわかる。茶を飲むと飲んだ時だけ茶の味がする。そこでどんな味がしたか?と聞いたらある者は旨かったと言うかもしれないし、あるいは渋かったというかもしれない、あるいは甘かったという者もいるかもしれない。しかしここで改めてもう一度飲んでもらいたい。

はたしてその「旨い」ということはどこにあったろうか。「渋い」とか「甘い」などという現象が本当にあったろうか。そう考えていくと言葉による現実描写の限界にすぐ気づくはずだ。実体の現象の方は時間にしても規模にしても言語をはるかに超えている。

だからといってがっかりすることもない。真実・真理というものは誰一人として見捨てることなく、いつだってどこにも隠されていない。むき出しになって今も自分の目の前に展開されているじゃないか。そういう観点からいえば世界はいつも平穏であり、平等なのである。

いつの世もそうだろうが、何か事が起こった時に一緒になって騒ぐ人間にはまあ事欠かない。いくらでも、どっからともなく野次馬は沸いてくる。文明生活というのは基本的にエネルギーが余るようにできているもんだから、退屈しのぎがあればすかさず飛び付くようになる。

それも余剰エネルギーの鬱散をはかる生理現象だろうし、人間も自然の生き物であったことは否めない。そんな人間でも訓練次第では境遇に左右されずに静かな世界を生きられるようになるのだから面白い。

頭ではくだらない話にすぐだまされるような輩でも、いのちの方は絶対にだまされない。降っても照ってもその通りのことがその通りに、そのまま展開するだけだ。愚かな頭というのはあっても愚かな生命はない。いのちは太古の昔から未来永劫、完全無欠である。

それ故意識の活動水準を極限まで下げて、いのちとの深いつながりを自覚している者はいつだって事の真偽を正確に見分けることができるのだ。

そういう開かれた目のことを慧眼とか心眼とかいう。

臨済宗の禅僧である大森曹玄老師の『心眼』という本にはそういうことが書いてある。老師がまだお若い時分に関東大震災に遭われた。そのところを少し長くなるが引用してみる。

それは関東大震災のときでした。私は従兄弟の安否を気づかって、下谷の彼の家を見舞ったのですが、そこは猛火に包まれていて寄りつけるものではありませんでした。やむなく上野公園を迂廻して帰りかけると、偶然にも寛永寺坂付近で避難中の従兄弟の一家と逢いました。彼らとともに一夜をそこで野宿して、翌朝、彼と一緒に焼け跡に行き、焼け残った釜を拾って戻りかけた時のことです。

突如、どこからともなく「津波だッ」という叫び声が起こり、群衆はワーッとばかり、われ先に上野の山を目がけて走り出しました。私も釜を投げ出して、群衆とともに一目散に走りました。

空は雲煙に覆われて夕方のように暗いし、鷗でしょうか白い鳥の集団が上野の森を目指して飛んで行きます。たしかに津波の来そうな不気味な状景でした。

そのとき一人の壮年が立ちはだかって、大声で群衆を叱咤するように、

「馬鹿ッ、この近くに海はないぞッ!どこから津波が来るんだい!」

と怒鳴りました。この一声で冷静になってみると、なるほど津波の押し寄せる条件は上野の山下には何一つありません。群衆は悪夢から目覚めたように、ぞろぞろと焼け跡へ引き返して行くのでした。私の徴兵検査の前の年でした。

そのとき、私はしみじみと目覚めた一人の真実の叫びの力づよさを感じました。…

これは現代でも変わらず言えることだろう。東日本大震災の折にも大小さまざまなデマが飛び交ったことを記憶している人はまだ多いはずだ。私の知る限りでも、もうすぐにでも東京に直下型の大地震が来る、などといって地方に転居してしまった人までいた。

当然だがどこに行ったって地震もあれば雷もある。疫病も流行るし不況もくる。それで困るか困らないかは、自分の力量次第なのである。例え火星に行って住んだって、自分自身に煩悶があればその自分からは逃げられない。

これほどしっかりとした自分といういのちを与えられていながら、本来の自己というものに目覚めない限りは一向に主体というものが現れない。そういう者は絶えず時流に流され、人間に生まれながら風に舞う紙屑のように右往左往してしまうのである。

私がお世話になった整体の先生が言っていたけれども、何か事が起こった時でも昔なら「まあちょっと落ち着け」とか「まず座れ」とかいう人が必ずいたという。兎に角、ひと呼吸おいて冷静になれ、という「できた」人物がそこにもここにもいたというのだ。しかしながら今はみんな動いてしまっているので、周囲の動揺に冷静に気づける人物がいないことを憂いておられた。

野口先生も生前「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」とか「気のしっかりした人がいなくなった」とおっしゃっていたそうである。またある所には「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る」とも記してある。これが判らなければ「鈍っている」と言うべきで、体を整え、心を静めれば自ずから判るのだと続け、身心の感受性を鋭敏に保つことの重要性を繰り返し説いている。

引用にあった「壮年」氏も、右往左往する群衆の中から必死こいて情報をかき集め、深慮のあげくに声を発したわけでないことは明白である。いのちの根源からこみあげる「直感」より発せられた一声であり、まさしく魂の叫びである。

これに類するものとしてキリスト教文化圏にはスティル・スモール・ボイスという概念があるそうだが、理性の過剰亢進によって意識が混濁しやすい現代人からしたら、こうした幽かな「魂の声」や「神の声」を聴くことは困難を極める。

逆に言えば、多忙な現代を生きる今だからこそ、自主的に意識の鎮静化に努める時間を持つことが求められるのではないか。野口晴哉も「意識がつっかえたら、意識を閉じて無心(無意識)に訊く」と言い、ここでも心を落ち着けて行う瞑想行の必要性を暗に示唆しているように思われる。

「落ち着く」というのは一見すると体とは別個にはたらく精神力のように思われるが、その実、精神を支える土台となるものは身体に他ならない。換言すれば落ち着きとは即ち身体能力なのである。

話を病気の方にシフトすると、結核でも克服して丈夫になっていく身体もあれば、風邪を乗り越えられずに死ぬ身体もある。これは学説ではなく事実である。

つまり生きた人間が持つ抵抗力ということを度外視したまま健康も治病も語れないはずなのだが、現実は無機的な研究室の試験管の中で病原菌の研究ばかりが盛んである。その結果病気に怯える知識は蔓延したかもしれないが、個人を如何に理解し丈夫に導くかという人間探求の道は頓挫したままである。

忘れないで欲しい。生きた人間は外境という風に吹かれて漂うだけの木の葉ではない。訓練と修行のやり方次第では、強い意志と主体性を確立して世界を幾重にも塗り替える力を持つ、可能性に満ちた稀有な生命体なのである。そういう人間に生まれたという僥倖に気づかないまま、真剣に悩むことも心底苦しむこともしないでただ飯を食って生きているようならこんなもったいない話はない。

先ほどの落ち着きの話と重ね合わせても、本当におそるべきは環境や外的ストレスではなく我が身体である。身体性の低下こそが諸悪の根源であり、身体性の再考、再構築こそが全人類を上げて取り組むべき焦眉の急なのだ。

いま横行する過剰な情報も発信者の身体性以上のものは出てこないだろうし、受信する方だって身体性が低ければその低い程度の情報に飛びついて延々と踊らされるはめになる。

そう考えると九年間も壁の前に座り続けただけで名前が残った達磨大師などは、やはり偉かったのだ。外界からの一切の刺激をそのまま享受し、またこちらかは無駄な言葉を一切発しない。禅の象徴ともいえる黙の精神の強烈な体現である。

意図的に一切の情報発信をしなかったということが逆に強力な主張に化けて、それが1500年も語り継がれるというパラドックス。それこそ水疱の如く出たと同時に消えていくSNSのつぶやきの対極である。ありがたいことに答えはいつも優秀な先駆者たちによって示されている。その教えを受け取れるかどうは個人の器量と努力に委ねられるのだが。

ここまでくれば何もあくせく出かけて行って世界を取り変える必要はない。自分を治めれば万事収まるのだから。静座して深い息をしよう。そして茶でも飲んで、無用な買いだめと動画のアップのをやめてくれ。いやだから俺も黙って深い息をすればいいのか。自分の掘った穴に落っこちてしまった‥。