何もしないという技術

この2週間くらいずっと『荘子』を読んでいた。野口先生は多方面に渡って深い学識を備えた人だったが、中でも最大のよすがとしていたのはやっぱり荘子だと思った。整体の智の中には禅も生きているけれど、その縦横無尽の自由性は老荘思想に裏打ちされたものだったと、4冊の文庫本を前に唸っていた。

一言でいえば「この世界」に対する絶対的な信頼とでも言ったらいいだろうか。一神教によく見られるような、世界を生みだした「全能の創造主」という気配は全くないが、兎角この世は人智を超えた「絶妙のしくみ」によって廻っている、という訳だ。

その絶妙さは当然人体にも反映されて、人間的な「はからい」をやめてその完璧さに委ねることさえ出来れば、生老病死に関する一切の問題はその場で消えると説く。

煎じ詰めれば人間は「何もしない」ということで最大の功徳を得られることになるのだ。人為の精髄ともいえる「科学」に支えられる現代社会に照らしてみれば非常に穿った見方になる訳だが、そもそもが紀元前から受け継がれたこの老荘思想が実社会で完璧に実現した例はおそらく無いだろう。

元は動物であるヒトが今日まで「人間」としての立場を築き存続させてきた要因は、やっぱり「理性」だろうし、自然に抗する「能動性」だろう。これらがなくなると人間といえども畜生道に堕ちてしまう気がしてならない。だから元より理性を捨ててしまう必要などはないけれど、「能動性と同量の受動性があった方がいいよね」というバランスに落ち着く。要は今さら珍しい話でもなくて、自然支配から共存共栄へのシフトだ。

これを整体という人間生活のフィールドに置き換えると、「頭脳」も使うけど「感覚」も活かそう、ということになる。順序としてはまず「感じ」て、それから必要な分だけ「考え」ればいい。現代は考えることがずーっと先行して、ともすればそれが全てという風潮に偏っている。だからこそ今微妙に「野口整体」がウケているのだと思う。女性のヨガブームも山ガールも自然回帰の本能という点では同質のものだろう。ちょっと世間を見渡せば、少し前から「スローライフ」とか「頑張らない」、「競争しない」なんていう概念もちらほら見かける。老荘思想とこれらは親類、子孫みたいなものだ。

荘子の思想から一つ抜き出すと「無為」という概念は重要なキーワードである。超訳すると「何にもしない時に一番うまくいく」という感覚になるが、この辺が非常に繊細だ。整体の仕事に置き換えて考えると、クライアントさんに対して「ナニもしないのがいいんだから」と決め込んで本当に抛っておいたら職務放棄になってしまう。よく見ればこれは「ナニもしない」、ということを「やって」しまっている。

だからナニもしないことをする訳でもなく、ナニかする訳でもない。そのどちらもスパッと「無い」のが理想だろう。一切の行為から「自分」らしい気配が消えたらしめたもの。昔から日本の芸道なんかでは「無我の境地」を好んで目指したりするけれども、東洋の中でも取り分け日本は「意識を静める」ということに最良の価値を置く文化だと思われる。

23日の修養会では、一つその辺をテーマにやってみたい。静めようとして鎮まるのではなく、ヒトが自在に動いた時その動きには自ずと静寂が宿る。病気の時によく勧められる「静養」というと絶対安静みたいになるが、こんな風にただ動かないだけだと結局動きたくなってザワついてくるものだ。

もっと自然に自在に動くつもりになればいいのかもしれない。「動中の静」とか、まあ言葉はいろいろと何とでもなるけれど、結局のところ「静けさ」は身体能力なのだ。自得しなければ力にならないし、それは身体で学ぶということだ。整体の面目もこの体得、体認にある。やってみたいという変わった方はどうぞお越しください。