見るということ

この二週間ほど文字を見ることができなかった。活元運動を毎日やっていたら目が痛くてしょうがなくなってしまったのだ。

そしてメガネがかけられない。

どうもあやしいので近所の眼鏡屋さんで検査したら、近視の度数が軽減しているではないか。簡単にいえば目が良くなっていたのだ。

活元運動の効用かどうかはわからないけれども、気がついたときには「目の前にレンズがある」、「顔に金具が掛かっている」という不自然さがつらくなっていた。

目の疲労は背骨の上方と、肩甲骨の動きとの関係が深い。そして肩甲骨は骨盤の動きと対応している。

さらに骨盤は呼吸といっしょに(わずかに)開閉する。と、こんな風に身体各部の関連性、連動性を挙げていけばきりがない。

だから、「今さら」という話だけれども、人体上のどこに問題が起こってもその責任は全身にある。

近視も眼球だけの問題ではないのだ。

伝え聞いた話によれば、野口先生の存命中は整体指導者たるものメガネなどはかけなかったそうである。

とはいっても航空機のパイロットみたいに、裸眼視力のよくない人は最初からはじかれてしまう、という話ではない。

視力の弱い人はその視力のおよぶ範囲内で生活をおくっていたという。

だからぼやけた世界で一生懸命氣を集めてモノを視て、それで立派に仕事をしていたそうなのだ。

壮絶!という気もするけれども自然界ならばそれは当たり前だ。

それが「自然」なら服を着るのはどうなんだ、靴は?自動車は?と考えていくとメガネだけに固執するのも妙な気もするのだが‥。

ただ思うのは、「目」そして「視る」という行為は精神活動に直結する気がしている。

むかしから「目は心の窓」というし、江戸から明治を生きた剣禅書の達人、山岡鉄舟によれば、人間はいくら学問や知識そして財力があっても「目から光が出るようじゃなければ偉くはなれない」そうである。

仏教の方では慈眼などという言葉もあるし、人間を語る上でやはり「目」は軽視できない。

なんだか取りとめない話になってきたけど、本気で身体の再構築を図るならメガネ、コンタクトレンズといった矯正機器を付けている人は一定期間はずしてみると効果的ではないかと思った。

強度近視の方などはむずかしい場合もあるかもしれないが、今回のことでメガネを外したぼやけた世界でもかなり生活できたことに我ながら驚いた。

主観的には今までの頭の「はたらき」とは何か違う感じがしている。

些細なことかもしれないが、また一つ身体の自然について考えさせられるできごとだった。

それにしても活元運動は本当にいろいろなことを教えてくれる。生命神秘と無為自然の体現法である。

9月13日活元会後記 体の波について

9月13日活元会を行いました。

事前のふれこみでは坐禅・活元会だったのですが、わたしが前半しゃべりすぎたために坐禅の時間はなくなりました‥。

教材は野口晴哉先生の講義録より「体の波」を選んで音読をして、みさなんに聞いていただきました。

整体法(野口整体)というのは実践哲学です。

なので、実践と並行して知的理解の両輪が必要である、というのが当院なりのスタンスです。

「両輪」ですから‥

左右の車輪のどちらかが大きかったり小さかったり、回転数がちがったりすれば、それでもうクルマはまっすぐ走れなくなります。

だから頭で理解するばっかりでもなく、理解したら必ず実践をする。

実践をある程度かさねたら、何のために、あるいはどういうことかを考える。

こういうことを行ったり来たり繰り返しながら、整体法をみなさんが体得していかれるようにと一応は考えています。

ちょっと話が横にずれましたが今回は「体の波」です。

人間には「波」があります。

これは科学的な検査でとらえにくい人間の生理機能といってよいと思います。

もちろん心電図や脳波計などではかろうじて「波」的なものがとらえられますが、レントゲンとか血液検査では完全にそういう時間軸はとらえられません。

そういう「点でとらえた」情報だけで、「生きた人間」がまるごと解るかといったらそれはおそらく不可能でしょう。

だから「生きて動いて絶えず変化する人間」をそのままとらえて、その波の低調高調を見極め、そのうえで波の間に間にポンポンとリズムや言葉や身体的な刺激を叩き込んで勢いを呼び起していく。

これが整体法の原理原則です。

しかしこれは決して「整体指導」という非・日常の特殊な空間だけにいえる話ではないと思います。子どもの躾のような家族間のコミュニケーション、家族以外でも人と人が心を通わせるためにはこういう生理的な波のあることを知り、その波の使い方を覚えていくことは大変有効です。

どうしたらそういうことが可能になるのか、といえばそれは自分の心身を通じて波のあることを勉強し理解していくことが一番の近道です。

心・体の微細な動きをよくとらえられるように敏感さを保ち、育てていくように、丁寧に生活をしていくことでそれは可能となります。

活元運動をこつこつやっていく、ということが王道ですが根底にあるのは自分自身の「たましい」とかその器である身体に対する礼、そして畏れの気持ちを持つようになれば年々歳々、心身は磨かれていくことでしょう。

ダイヤモンドと同じようなもので、磨かなければ誰の目にも止まらない石ころです。

身体もそういうものではないでしょうか。

有志のみなさまにはぜひ活元運動をお伝えしたいと思います。

次回は22日土曜日です。

8月25日活元会後記

毎月第4土曜日は坐禅・活元会です。

ご参加は比較的初心の方2名様でしたので、活元運動の準備動作をとにかく丁寧にやりました。

物事は何でもそうですが、準備、「仕込み」が大切です。

「仕込みが9割」です。

活元運動の場合なら、まずは呼吸。

「邪気の吐出法」という(ちょっと古めかしい名前ですが)、大きく口を開けて「はぁー」と吐き切る呼吸を最初にくり返します。

これで頭のはたらきを切り替えていきます。

とにかく現代の人はアタマの回転が早すぎて心の休まる暇がありませんから、それをまず「ゆっ‥くり」動く状態に導いていく。

言ってみれば「活元脳」みたいな、いわゆる「ポカン」の状態です。

「これだけで自然の健康を保てます」と断言できるくらいの重要なプロセスです。

そうやって横隔膜の動きを柔らかく大きくしてくことで、気持ちにもゆったりとした余裕が出てきます。

世界が変わる、といってもいいくらいです。

・それから背骨を捻じる動作。

・背骨に力を集める訓練。

これをきちんとやってあとは目を瞑って「だらん‥」、としていると身体が動きはじめます。

初めての方もしっかりそれらしい運動が出ていました。

このまま繰り返していけば、自律神経が整い身体のバランスを取るはたらきが自然に強化されていきます。

非常に簡単なうえに、スポーツのようにケガをする心配もありませんのでどなたでもできます。

来月は9月13日(木)、9月22日(土)に予定しています。

野口整体に興味のある方、自分で健康を保つ方法をお探しの方はご参加ください。

8月9日活元会後記

去る8月9日に坐禅・活元会を行いました。

なぜか前回と同じく台風の予報と重なりましたが‥。そして前回同様、予報に反して大したことはなく、みなさん無事にお集まりいただけました。

内容は脊髄行気から始まって、坐禅、野口整体の教材資料を使っての座学、そして活元運動です。

まずは脊髄行気について。

ちなみに「行気(ぎょうき)」というのは自分の身体のどこかに、呼吸を入れていくようなつもりで気を集める訓練法です。

だから「脊髄・行気」といった場合は、脊柱管という背骨の中心孔をイメージして、頭のてっぺんから尾骨に向かって息を吸っていく(つもり)。

「すーっ」と鼻から吸って、吐く方は特に意識しません。

目をつぶって静かにおこないます。

大体、10分くらい。

ひとしきりやって落ち着いてきたところで次は坐禅です。

坐禅はご存知の方も多いと思いますが、半眼といって目を開けておこないます。ただし、視線は45度下方(やや伏し目がち)になります。

そして、うちの坐禅会では「坐骨」を大切にしています。坐骨をぴたっと座布団に据えて背骨をまっすぐに立てていれば、「足の形は自由」ということにしています。

一般的には結跏趺坐(けっかふざ)という、いわゆる大仏様の座り方を推奨するわけですが、これがむずかしければ正坐でも結構ですし、アグラでも椅子坐でもOK。

そしてさらに、眠くなったら寝っ転がっていてもOKです(今のところ、ゴロ~ンと寝た人はいませんが‥いいんですよホントに)。

とにかく、

「何にもしない」

ということをやってみましょう、という集まりです。

本当に「何にもしない」でいる時、自分は、世界は一体どうなるのでしょうか。

どうぞ、やって確かめてみてください。

 

さて、それから休憩をはさんでお待ちかね(?)の座学です。

いや‥、脊髄行気と坐禅がおわった時点でみなさんエンディングモードだったのですが…一応スケジュール通り敢行いたしました。

資料は野口晴哉著『愉気法1』全生社の「質問に答える」より。

質問 活元運動の会で大変よいことを学びまして感謝しておりますが、年を取ると(六十五歳)、長患いをしないで終わりたいということを考えます。老衰死ということになりますと、一年近くはおしもの世話を受けるようですが、避けられないことでしょうか。

 こういうご質問ですが、死ぬ時はみな快感があるのです。老衰して人に世話をかけるというのは、まだ自分の力を発揮していない人です。力のある内に力を使わないでいると、そういうように動けなくなるのです。本当は死ぬ間際まで動ける。…<中略>…

…ですから、死ぬ前の一年間、人に小便をとってもらうことなど考えないでいいと思います。それまでは相互運動をし、人にも愉気をし、自分も愉気を受け、相互におやりになることがいい。人間はそういう力を持っているのだから、それを存分に発揮しなくてはいけない。専門家ではなくては治せないというのは嘘なのです。みなお互いに治し合う力を持って生まれているので、そういう人間の持っている力を発揮しさえすれば、お互いがお互いを助け合えるのです。ただ心を無にして触ればそれでいい。(『愉気法1』pp.75-80 一部太字は引用者)

坐学では整体の心得と世界観を知っていただくために資料を選出しています。

大切なことは価値観と世界観、そして死生観の共有と理解。

平たくいえば、生きているうちに「力を出し切ろう」と言っているのです。

そのために頭のはたらきを停止して、身体の方に任せることが大切だといいます。

整体ではよく「ポカンとして‥」、といいますが、何にもしないでぼやーっとしていることにも立派に価値があるんですね。現代的にはあまり好まれないかもしれませんが。

例えば、日本に曹洞宗を伝えた道元禅師によって、坐禅の要諦について記された『普勧坐禅儀』という指南書があります。これによれば‥

諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。

という部分があります。つまり「心のはたらきをすべて開け放して、一切を忘れて休息しなさい」と言っているんです。活元運動というのも、形こそちがいますけどそういう訓練ですね。

どこまでいっても、「ポカン」として身体のはたらきに任せましょう、という話です。

そして、いよいよ実践に移ります。

みなさんでいっしょに息を合わせて活元運動を行いました。

活元運動にはこうしなければいけない、こうしてはいけない、ということはありません。ぱたぱたよく運動の出る人、とろーんと眠りかけている人、いろいろです。

丁寧に1時間くらいかけておこないました。全員の運動がある程度おさまったところで終了です。

最後にほっこりお茶を飲んでおしまい。

実際のところ、毎回毎回、これって一体何をやっているのかなあ、なんて思うこともあります。

でも何となくみんなお集まりいただくのだから、たぶん目に見えない功徳があるんでしょうね。

心がほんのちょっとでも洗われて、ラクになって帰っていただければ、本人並びにまわりの人たちにとっても良いことだと思うのです。

今月はもう一回、25日(土)にも行います。

ご参加を希望される方は前々日までに、メールフォームにてお申し込みください。

整体の臨床を考える

ここしばらく野口整体とユング心理学の統合を謳っているけれども、改めて何をどうするのか訊かれるとなかなか上手く答えられない。

一つ言えるのは、ユングの提唱した「個性化」ということを整体指導の臨床で実現したいというのは外せない「ねらい」である。

ユングの言う「個性化(individuation)」というのは、俗にいう「個性『的』に生きる」ということとは別物である。その真意は、自分の原初的な〈こころ〉につよい関心を寄せることで「本当の意味で、私らしく生きていこう」という態度なのだ。

整体流にいえば「裡の要求に目覚める」という表現がこれに近いように思われる。これは身体の中心(深層意識)にある〈思い〉に目を向けることで、自分が芯から望んでいる生き方を真摯に考える、という極めて敬虔な態度なのである。

この両者のプロセスにおいて共通しているのは、いずれも顕在意識の活動水準をひたすら下げていく、ということだ。

これについて野口整体ではよく「ポカンとする」という表現を使うけれども、このポカンというのが顕在意識の活動水準が充分に下がった状態を指しているのだ。

現代的にはどうしても「思考力をいかに高めるか」という方に価値が置かれやすいのに対して、敢えてそのウラをかく行き方ともいえるだろう。

深く考えたり内省したりするような「意識的な」活動を積極的に放棄することで、自身の行き詰まりに対する「打開策」や「活路」を見い出そうというのである。

イメージとしてはアニメの一休さんが頓智をはたらかせる際に、坐って目を瞑りポクポク‥チーンとやるのがひとつの典型である。いってみれば覚醒した意識の統制下において、大脳の活動を休ませる状態を作り出したい。

そこで鍵となるのが「身体」なのである。

一般的に「意識」とは脳の活動状態のみに従属するものと考えられやすいが、実際は「全身これ意識」といった方が正しい。特に幸福感や心の余裕度といった面においては、もっぱら脳よりも下腹部や腰部の「姿勢」や「体勢」といったものが大きく影響するようである。

特に腰椎部(ヘソの裏側あたり)に生理的な正しい湾曲(反り)が現れると、余計な心配事や不安感は消失する。いわゆる「大丈夫」とか「大安心」の境地というのは、下腹部を中心とした「修養」を正しく積むことで得られる「身体能力」なのである。

換言すれば整体指導というのは個々人においてこの「大丈夫」を顕現するためにある、といっても間違いではない。

それは頭のはたらきを一定に鎮めることで、腹脳と呼ばれる二次的な(より高尚な)意識の覚醒を試みることである。東洋的な身体観において「上虚下実」という状態が好まれるのは、上記のような理由によるものと考えられる。

そしてこれこそが最初に書いた「個性化のプロセス」や「裡の要求に目覚める」ために必要な心身の構えとなっていく。

これに因んで、ユングは自身の精神的危機を乗り越える際にヨーガをやったと言われているけれども、クライエントに対して身体的な「行」を勧めたというような記録は今のところ目にしたことがない。

実際はそういうこともあったかもしれないが、やはり当時の西洋社会においては「身体」の中に精神を開拓できるほどの可能性を見出してはいなかったのではないかと思われる。

その辺りを現代日本人の心と体の教育に適用して成果を上げようというのが、現行の整体指導のねらいなのだ。開業して9年ほど経つけれども、多少なりとも概要がまとまってきた感がある。

一方で、自分の職業の可能性があまり小さくまとまってしまうのもつまらない。だから「整体指導とはこういうもの」という概念の固定化はできるだけ避けるようにも心掛けている。

実際の臨床においては、よくわからないけれども会っていると「なんとなく」元気になっていく、というような余裕のあるテイストは大切に残しておきたい。そのためにも人間的な大きさとか、徳性を養うことはライフワークといえる。

そういえばむかし手相鑑定士に「あなたは哲学や宗教学のような『正解』のない学問をやり続けるのが性に合っている」と言われたことがある。ふと気がつけば大体そんな人生になってきているの気がするのだが、まあとにかく‥。

何にせよ導き手というのは、自分の人生、「私の道」を日々創造し続けることが責務である。坐禅と活元運動の励行は無意識からのエネルギーの流れを生み出して、自我の再構築を進めてくれる貴重な行法なのだ。

そうやって自身の自由性を充分に発揮していくことが、他者の自由度を拓く力になる。そういう意味で「整体」という生き方は、生の終着地点としての死を最良の状態に仕上げるための指針のようなものである。

ひたすら死に抵抗し続ける「自然科学」に対して、死を積極的に迎え入れることで生を輝かそうとする「宗教」としての位置に、ユング心理学と野口整体は座しているのだ。

あとは洋の東西を越えた視点に立って、「現代」という同次元の中を生きる「人間」に対しどう向き合うか。その術を生み出す過程において、先の両者の統合が非常に有効な手立てになると考えている。

いずれにしても「個人」に真正面から向き合うことは原則である。臨床における術(すべ)に普遍的な具体案はない。

それだけ、生きた「人間」ほど解らないものはないのである。人間は策を弄するほど〈いのち〉の原形からは遠ざかる。

この無限の不思議さに有限の生を以て追い続けた先達に範を求め、自分自身のいのちの真相を解き明かすことが自ずと両者の「統合」に至る道ではないかと思っている。

心のゆらぎと安定

せい氣院の整体では仕上げに必ず正座をしていただく。

ちなみに古伝の整体法ではベッドを使用しないため、受ける方は操法布団にうつ伏せ・あお向け・正座のいずれかになる。

とにかく3、4年前までは私も師匠に教えられたとおり、坐骨が安定させて腰椎(背骨の中の腰部分)がしっかりと伸びること「だけ」を目標に一回の操法を組み上げていた。

ところが最近になり「果たして本当にこれでいいのか?」と考えるようになってきた。

確かに腰椎が伸びれば意識は静まる。

それはそれで結構なんだけれども、そのとき思考も停止して精神は非常に「平安」の状態になる。

「それも結構じゃないか」と言えなくもないが、本来は「悩む」ことでその人は何かが変わろうとしているわけだから、もう少し悩みを深くして、葛藤の純度や精度を高めることも必要なのではないか、と考えるようになったのである。

ところがカリスマ性の強い指導者やメンターというのは、しばしば相手の中にあるユレやグラつきを全て奪ってしまう。

その結果クライエントは「その人」に会ったときだけものすごく安定する、という「問題」が出てくるのだ。

そして時折りこれが一種の中毒症状になって、「治癒」と「自立」を目的とした臨床の場がかえって不健全な癒着状態に陥ってしまうケースが巷には散見される。

これはあくまで私見だが、高額のスピリチュアル・カウンセリングやスピリチュアル・ヒーリングの世界には、このようなモデルで関係性やコミュニティが成立しているものが多い気がしている(もちろん本当に霊的な感性を有効利用して人々を導いていく先生もおられるが‥)。

本来「自分のこと」というのは、必要に応じて援助者がいたとしても、最後のところは自分で完成させなければならないのだ。

たとえば心理学者のユングは師のフロイトのもとを去ったのちに直面した自身の精神的危機を乗り越えるために、ヨーガの瞑想を行なったとされている。

ただし東洋宗教の場合は瞑想によって一切の妄想雑念からの解放(悟り体験)を願うが、ユングはこのような態度に疑問を持ち続けたのである。

何故かといえば、本来心が人格の全体性に向かって葛藤しつづけることが、治癒と成長に欠かせない生命のダイナミズムである。

だからこそ心が極度に静止した状態が長い間つづくことに対して、心理療法上の弊害が予想される。

もちろん瞑想行を通じてすばらしい人格を築き上げていく人も世の中にはたくさんおられるわけだから、ここで事の正否まで明言することはむずかしい。

ただ現時点のわたしは、やはり「悩むべきとき」には心はぐらぐらに揺らぐ方向にかけている。

昔「みんな悩んで大きくなった」というCMソングがあったそうだが、大きくなるためには悩むことが必要なのだろう。

悩んで悩んで、そうしていわゆる「どん底」というところまで沈みきったときに、つんと地面を蹴ると、不思議と人間は何もしなくても浮かび上がって来るものである。

「時」こそが「癒し」なのだ。

もちろん、無意識から顕在意識の方へ急激にエネルギーが流れ込んだ結果クライエントが極度なうつ状態になっていたり、方向性を見失ってどうにもならない、というような場合には「事故」にいたるまえに適切な保護は必要かもしれない。

このあたりの按配が(時には命も関わるので‥)極めて重要だが、指導者の方に「相手の力を使う」という気構えがあれば、うっかり相手の立ち上がる力までを奪うようなことはなくなるものと思われる。

物事にはなんでも厳然とした順序やプロセスというものがあるのだ。だから今ゆれているものを「時」を無視して急に止めるということにはやはり「無理」がある。

これが生物ならやはり「こわす」方向に行くだろう。

安定に至るための「ゆらぎ」というのを如何に充実した期間にするか、が治療者の力量であり器量ではないだろうか。

コツはやはり見ている方が「呼吸を深く」保つこと、そのための鍛錬を日々行うということではないか。ひと言でいえば心の余裕だが、自分自身の中にあるゆらぎを黙って見守ることができる余裕は必要だろう。

ゆらぎを活かすということは取りも直さず自然を味方につける、ということである。まず自分自身が自然と一体になることでその功徳がやがて余人にまで及ぶのだから、シャーマニズムの原型のようでもある。

熱も下痢も身体を丈夫にするために利用するのが野口整体だが、不均衡、不安定な状態というのはいずれもそれ自体がエネルギー内包しているのだ。これを上手に使う発想をしっかりと身に付ければ、不安になることをそんなに怖がらなくてもよくなるだろう。

病気は生命の自然良能である。身体においても精神においてもそれは変わらないのである。

体癖論とタイプ論

野口整体とユング心理学を併学しているので、どうしても体癖論とタイプ論の整合性が気になる。

体癖とは全部で5つある腰の骨に対してそれぞれ、思考(上下型)・感情(左右型)・闘争(捻れ型)・愛憎(開閉型)・理性(前後型)といった気質を適合させ、さらにそれを積極性と消極性の2つに分けた。

こんな風に無理やり一文に詰め込むと素養のない方からすれば訳がわからないと思いますが‥。

とにかくまあ、5×2で計10種類の体癖素質(その人なりの気質や感受性傾向)に分類される。

これに対してユングのタイプ論ははるかに知名度は高いと思われるが、思考・感情、直観・感覚の4つの機能に対して外向的・内向的の×2であるから合計は8になる。

細かい組み合わせについては割愛するが、一つ一つ当てはめて考えていくと10引く8で結果、体癖論の闘争(捻れ型)の2つが余る。

また体癖論はその名の通り身体性から出発した分類法なのに対して、タイプ論はユングの臨床経験と自身のヨーガ(瞑想)体験による無意識の探索から紡ぎ出された理論である(ユングはおそらく「身体」には着目していないと思われる)。

これだけ出自が違えども、お互いを組み合わせていくと意外に整合性が取れる面があって興味深い。

現時点としてはまだ自分の思索内で漠としたまま動めいているが、もうあと1、2ヶ月したらすっきりまとまってホームページにアップできそうな気がしている。

「まとまったらそれがどうなるんだ」という自分ツッコミもあるのだが、おそらくは二つの立ち位置から対象を捉える「複眼」になるために、人間の捉え方がもう一つ立体的になるだろう。もちろんこれは臨床にも活かせるはずだ。

しかしユングの場合は思考・感情、直観・感覚この4つすべての機能をバランスよく発達させることで人格の円満な成長を推奨するのに対し、野口の体癖論では「体癖は生涯変わらない」と説く。

それはつまり「花は紅、柳は緑」の理論で、「欠点を克服する暇があるなら長所を伸ばせ、そうするれば欠点は消える」といった見方である。

どちらも個人の特性を如何に成長させ、どう活かすか、という目標に向かう態度ではあるが、これこそ各々の「個性」が際立つ結果となっているのは面白い。

また、よく考えてみれば「人格の成長」とひと口に言っても、具体的には一体どのような変化をもって成長と呼ぶべきかはむずかしい問題である。

そこに解答の多様性と人間探求の奥深さが見て取れる。

整体も心理学も「ゴール」や「正解」のない無形の学問であるために、その答えは個人の資質と感受性に委ねられるのだ。

いずれにしても最終的には自分の資質を見究めることに尽きる。これに一生を捧げるという点だけは揺るぎない共通項であろう。

そこで身体というのが重要な鍵になる。「身体の可能性を拓く」ということが現代のブームになりつつあるが、野口整体はだいぶ先駆けに位置していたものと思われる。これは大きなアドバンテージだろう。

一方で整体法はとにかく個人的経験を積むことで主観を磨くが、心理学というのは一応アカデミズムの約束事を順守しなければならないので客観性を重んじる。

結果的にはお互いが補償の関係になる。

長くなったけれども、野口整体もユング心理学も本気で勉強しようと思ったら人生がいくつあっても足りない規模のものである。全ては学びつくせないにしても、両方の強みを生かして自分なりの人間理解を構築していきたいと思っているのだ。

 

子どもの宇宙

太郎丸(息子3歳)の保育園放浪記が3園目でやっと相性の合うところに落ち着いた。

「保育園(幼稚園)に行かない」

「行こうと言うと泣いちゃう」

こういうことは世の中にたっくさんある話だけれども、子ども一人一人の中に別々の宇宙があるのだ。大人はその一人一人の世界を大切に守る義務がある。

サン=テグジュペリの『星の王子様』の冒頭には、みんな最初は子どもだったのに子供だったことを覚えている大人はいない、という一節があったと思う。

子どもの心がわからなくなるのは、それだけ大人の心と体が日々ストレスにさらされることで鈍ってしまいやすいから。

子どもの目の輝きをよく見てそれを守ること。そして抱き上げたときの重さをよく感じとることが大切だ。

身体がずっしりと重ければ、それだけ心がリラックスして充実していることがわかる。

大人が整体を保つのは、人類の未来を担う子どもの心に広がる宇宙を守るため、といってもいいだろう。

そういう風に「大切に」されて育った子どもたちが大人になり、そういう大人がまた子どもの世代を大切にしていく。

これを連綿とくり返せば、あらゆる文化的価値観や宗教の垣根を越えて、人間の世の中が少しづつ真の豊かさに近づいていくはずだ。

自分の力のおよぶ限り、整体の価値を世に伝え、遺したいと思う。

 

坐禅・活元運動の会 2018.5.26

今日は坐禅・活元会でした。

いつも通り坐骨・骨盤の用法と意識の関係性いついてご説明してから、2炷坐りました。

そのあと本日はイレギュラーに足指廻しと股割り、腰割りで股関節を刺戟して、自律神経を整える動作を行いました。

活元運動も平常通り。

毎度、何でもないようなことなんだけど、深いリラックス状態にもっていくにはとても有効なカリキュラムだと自負しております。

来月の予定は近日公開いたします。

志ある方はご参加ください。

食息動想

人間の健康を保つ上で「食息動想」の四つの概念を考えよう、という教えがある。

操体法という気持ち良さを基準にする施術を生み出した療法家、橋本敬三先生の思想である。

読んで字の如く食事と呼吸、そして動作、想念、これらの4つ全てが整うことではじめて身体が安定すという話で、言ってみれば四輪車のタイヤだと思えばいいだろう。

どれか一個でもパンクしていたら、他の3つが問題なくても車はまっすぐ走れないのである。

確かに言われてみれば当然だが、何もないところからこうまでシンプルに健康の真理をまとめられるかというとむずかしい。非常に聡明な方だと思う。

一方で、その一つ一つを具体的にどうしたらいいのか?と考えるとそこから先はブラックボックスだったりする。

「動作」に関しては操体法の施術でだいぶ説明がつくが、食事一つとっても何をどう食べたらいいのかというのはまったく未知である。

体に適うように飲み、食いすればもうそれでよいのだが、その「適う」ということのものさしが大事なのだ。

誰に訊けばいいのか、といえばそれは当然自分の身体に訊く以外にない。

そのように考えていくと、その身体の声が聞こえるような澄んだ意識の構えを作るのが整体の役目である。

理屈は簡潔だが、実現には正しき訓練がいる。活元運動はそのひな形ともいえる。

先に体が整えば食・息・動・想はみんな自然と正常になる。龍の絵に目を入れると天に舞うというが、整体は先に目を描いてあとは勝手に龍にしてしまおうという考え方なのだ。

方法と結果のベクトルが逆だが、整体も操体法も同じ真理を掴んでいたものと思われる。目指す山は一緒だけれども、登頂ルートはいろいろあるから面白い。