わけられない

河合 無限の直線は線分と1対1で対応するんですね。部分は全体と等しくなる。これが無限の定義です。だからこの線分の話が、僕は好きで、この話から、人間の心と体のことを言うんです。線を引いて、ここからここまでが人間とする。心は1から2で、体は2から3とすると、その間が無限にあるし分けることもできない。

小川 ああ、2.00000・・・・・。

河合 そうそう。分けられないものを分けてしまうと、何か大事なものを飛ばしてしまうことになる。その一番大事なものが魂だ、というのが僕の魂の定義なんです。

小川 数学を使うと非常に良く分かりますね。

河合 お医者さんに、魂とは何ですか、と言われて、僕はよくこれを言いますよ。分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂というと。善と悪とかでもそうです。だから魂の観点からものを見るというのは、そういう区別を全部、一遍、ご破算にして見ることなんです。障害のある人とない人、男と女、そういう区別を全部消して見る。

小川 魂というのは、文学で説明しようとしても壮大な取り組みになりますけれど、数学を使えば美しく説明できるのが面白いですね。

河合 だけど心理学の世界では、魂という言葉を出したら、アウトです。

小川 そうなんですか。

河合 非科学的だと批判されますから。・・・(小川洋子 河合隼雄 『生きるとは、自分の物語をつくること』 新潮社 pp.27-28)

整体指導を受けにあたり、初めのうちは病院との並行利用で通われるケースが少なくない。具体的には皮膚の疾患であったり、頭痛やめまいであったり、何かできものが出来たとか、そういったことをどうやって解消していったらいいか、と悩み考えて調べていった結果いわゆる「ノグチセイタイ」に辿り着いたといような場合にそうなりやすい。

だけれども、整体というのは「その様な生き方」をするための教育が本質であって、「治療をする」ということとは立処を別にしている。生命の自然調和ということをあらゆる思惟と行動の起点に置き、「それを如何にして保つか」ということが主眼である。そのために錐体外路系の訓練として活元運動があるわけで、ここを介さないことには最初の門をくぐった事にはならない。

そこでまず「理解」ありきというのが、現在当院の指針となっている。つまり「病院」とは何をするところか、「整体」では何をやるのか、という分別が曖昧なままでは指導が始まらないのだ。

最初の引用では河合先生が数学を使って「魂」の定義を試みているが、これは数学と文学が相補したような見事な表現だ。つまり魂に限らず、もともと「この世界」というのは分けられないし、分かれてなどいないのである。そこを、文字通り「分別」という思念によって「ひとつ」のものが2にも3にも1000にもなる。「科学」と「認識」は同じ思惟活動の別称なのだ。

つまり常態の身体活動の中から「不快」或いは「悪しき」、「異常」と認めた動きを「疾患・疾病」とみなして、その排斥を試みる。これが「科学的な治療」の正体である。だから熱が異常と感ずれば、熱を排斥する。湿疹なら湿疹を無くそうとする。下痢なら下痢を止める。鼻血なら鼻血を止める。だいたいこういう系統のことである。

ところがこの世界は「生きている」という事実が只その通りにあるというのが実態である。「私がいる」という気配すらないのが「いのちの真相」なのだ。だから治療ということも根元的には「ここ」に帰すことだけを考えればいい。それ以外のものが不要とは言わないし、むしろ大いに要るのだが、最終的に「異常を認め、治す(直す)」という方向だけではどうにもならない根本の問題に必ず突き当たる。

畢竟、思惟の最終着地点と言うのはどこまでも「ひとつ」しかないのだ。言葉にならないそれを強いて言うなれば、「ある」ということだろう。それは時に「いま」と呼ばれたり「わたし」と言ったり、「ほとけ」、「せかい」…など様々である。一切の治療を捨てて「我あり」という言葉に帰結させた整体は「わけられない」ものに気づくことの重大性を諦観している。「ぽかんとする」ことを最初に説くのもそのためである。はじめの一歩が即、真理でなければ「今」に間に合わないのだ。

傍らにいること

傍らにいること

河合 カウンセリングは、ちゃんと話を聴いて、望みを失わない限り、絶対大丈夫です。でも、例えば「先生、次は学校行きますよ」「嬉しい、良かったね」っていうやりとりが何度あっても、やっぱり行けない。それでこちらが内心望みを失うとするでしょう。そうしたらもう駄目なんです。「アカンかったわ」と言われた時に、こちらがちゃんと望みを持っていることが大事なんです。

小川 まだまだ大丈夫っていう、望み。

河合 「行けなかった」と言った時「でも行けるよ」って言うたら、行かなかった悲しみを僕は受けとめてないことになる。ごまかそうとしている。「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、望みは失っていない。望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。・・・ (小川洋子 河合隼雄 『生きるとは、自分の物語をつくること』 新潮社 pp.112-113)

久しく心理療法の記事から疎遠になっていた。この辺りは以前から行ったり来たりと言うか、自分が仕事をしていて対話が中心になる時期と、反対に言葉少なくなる時期が周期的に移り変わることに最近気が付いた。整体指導と心理療法は別々の環境で育った双子のように近い関係にあるが、いずれにしても「何でもよく話す方がいい」、「あまり言葉がすぎてはいけない」という二分法で仕事の良し悪しを評価することはできない。根本的にはクライアントの心に対してカウンセラーが「ぴったり」ついていけることが理想だろう。

上の引用は『博士の愛した数式』の原作者小川洋子さんと河合先生の対談本からの一節だが、この後もクライアントと関係を育てるための内容がつづく。受ける側にせよ、行なう側にせよ何らかの形で「カウンセリング」に携る方はならば一冊精読されるといろいろな面で学びがあるのではないかと思う。

当院には様々な「荷物」を背負った方がお越しになるが、時に自分自身の共感能力の乏しさに落胆することがある。引用の末尾に「望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。」とあるけれども、最初にこの文章を読んだときは「あぁ、そうなんだ」とさらりと読み流していた。つまりはそんなことは「カンタンだ」と思っていたのだ。

実際は「相手と同じ臨場感で、同じ負荷を味わいながら」も望みを失わない、というのが難しい。こちらが問題の対岸にいて「それは大変そうですね」というのと、相手と同じ岸に上がって「ああ、これは確かに苦しい…」というのでは根本的に違う。だから全人格的な治療を志すならば「心のひだ」が発達しないことには何も成し得ない。この辺りは修養あるのみである。

見出しの「傍らにいる」というのは一緒にいながら、努めて「何もしない」という態度だ。この「何もしない、をする」というのが治療の元型であると思っている。相手の潜在生命力に対する絶対的信頼を根底に据えた態度といえる。

自我意識の波を鎮めて、自然生命の波が表出することで、はじめて「治まる」ものがある。総じて整体の技術が「愉気にはじまり愉気におわる」という言葉を、味わい深くかみしめるようになったのもつい最近のことだ。依然としてわからないことは多いけれども、いつだって未完成と言う形で完成されているのが現在である。

「整体」というのも到達すべき目的地ではなく、より良い理想を描きつつ変化・成長していくプロセスの只中にある。そこを生きる者同士が傍らに在ることで、お互いの生命を尊重し合い、また高めていけるのだと思う。本来治す者と治される者は別々に在るのではなく一つの活動体なのだ。礼と惻隠の心がそれを一つたらしめている。「生命に対する礼」の生命が何を意味するのか、深く考える必要があると思う。

ままならぬ人の心 -潜在する心へのアプローチ法さまざま

ままならぬ人の心

人間というものは思いがけない失敗をしでかしてしまったり、してはならないと知りつつやってしまったり、おろかなことを繰り返すものである。われわれは「ままならぬ」のは他人の心と思いがちであるが、自分自身の心でさえ、案外「ままならぬ」のである。(河合隼雄著 『無意識の構造』 中公新書 p.12)

今日は河合隼雄さんの文章から。ここに自分自身の心でさえ「ままならぬ」と表現されているように、ほとんどの人が「自分で考え、自分で行動している」と思っていながら、実際のところでは自分で思う自分というものの認識外、いわゆる「潜在意識」というものに無自覚に支配されて動いている。

だからこそ「自分」の統制からはずれて「思わぬ」ことをやってしまい、本人並びに周囲の人たちまで巻き込んで当惑するような問題事が人間の世の中には後を絶たない。こうしたイザコザの中でも、とりわけ余分なものを見つけだし、その処理を担うことも整体という仕事の範疇として求められる。

簡単に言えばこういうコントロール外の動きをしてしまうようなのは高潮時、エネルギーが余った時に起こる。だからこういう「人間生命の波(バイオリズム)」を読んで、その波に逆らわないように停滞したものは流してやり、破壊的になりそうなものはそこへ少し棹差して流れの向きを変えてやる。文章にするとすこぶる単純だが、これを個々人の資質や状況に合わせて行なうとなると精緻な勘を前提とした実践的訓練を要する。

心理療法において、こうした見えざる心の動きをどのように対処していくのかは知らないが、整体の場合は幸いにして「身体を読む」という技術があり、それがここでは有効に使われる。簡単に言えば、その「ままならない心」というものは体表上には筋緊張として現れるし、内面的には無為動作の偏り傾向として、すまり視覚と皮膚感覚を駆使することで捉えられる。

なんであれ、人間が一生のうちに行う大仕事といえば、やはりこの「ままならぬ自分の心」の構造を自ら解き明かすことだと言っていいだろう。つまりは意識活動の根幹、それも最下層部へのアクセスが求められるのだが、多くの人はここを素通りした「自我」を用いて、外界現象の方にしか認識の光が及ばない。

%e6%ba%80%e6%9c%88整体においては、その潜在化した意識の扉を開く鍵が身体への刺戟なのだ。筋肉を弛めることで、一旦沈潜化した意識はその拘束をとかれ、良いものも悪いものも顕在意識の領域まで浮上してくる。これを私は「感じ直し」の作業と呼んでいるが、これにより「ままならない」領域にしまわれた心のエネルギーは意識の中に統合されて、再び、あるいは初めて自我との対面を果たす。精神の健全さとは、こうした意識の内面の活動を積極的に行えている状況を指すと思っていいだろう。

整体指導者やカウンセラーの個人的力量の問題もあるので、一概にどちらがより有効であるとは言えないが、整体のようにフィジカルな領域を介在せずして癒しを行える傾聴型カウンセラーはすばらしい人間力を有していると思うのだ。

問題は手法の選出よりも個人の力量如何にかかっている。それはリードする立場の方が自分の心をどれだけ理解しているかということだろう。その理解できた領域までが他者を扱える領域ということになる。ままならぬ人の心にどのように取り組んでいくかも、個人の資質によって様々なのだ。私は職業的経験も踏まえつつ、何が人生の妙味かといったらこれ以上のものはないと確信している。

ごく平易に言えば「悩む」ということなのだが、ここで野口先生の「悩むといいことはよいことだ。これあって人間は進歩する。」という言葉が味わいを伴って思い出されるのだ。ものごとの本質をさっと捉える質であったからこその至言であることは明らかだ。そもそもが心の研究というのは個人の内で完結するものなので、「先見の明」という言い方は不適かもしれないが、やはり心理療法的観点から言えば先駆けというに相応しい。整体の真価が求められるのは、東洋の心の世界に着眼が定まる現代にあって、正に「これから」だと思う今日この頃である。

変われるのか 変われないのか

最近の研究テーマというか「人間というのは結局変われるのか、変われないのか」ということを深く考えていた。野口整体の根幹は「潜在意識教育」で、これが抜けてしまうといくら技術で身体を整えてもまた戻ってしまうのだ。だから基本的には自我意識の変容、成長ということが伴わないと、仮に「治った」としてもまた元に戻ってしまう。

それではどの辺まで変わるのか?ということなのだが、当然自分自身の変化の幅でしか他者はリード出来ない。一般に言う「性分」とか「性格」、「気質」など表現は諸々あるとして、自分が整体指導を受けてきた経験からも言えるのだが、「自分で自分をこうだ」と無意識に思っていることはなかなか変わらない。逆に言えば自我がしょっちゅうコロッコロッと変わってしまうようでは、自他ともに社会生活全体がままならなくなるだろう。昨日まで知っていたAさんが、今日になったら全く違うAさんになっていた、というような事が横行したら個人にも公にもさまざまな支障が出る。だから自我というのは生来強固な造りになっていると言えばそうなのだろう。

だからといって、「変わらないのか」と諦めてしまえば心理療法も整体指導も成り立たない。そう言う観点から、「変わる」も「変わらい」もなく続けていると、やはり何かが違ってくるのも事実だろう。実はこの辺りの所は河合隼雄さんの著作からヒントを得ながら、ある時期から熱心に取り組んでいるのだが・・。「人間が少しでも変わるというのは大変な事なのです。」という氏の弁は、実体験から出てきた重みのある言葉だ。

人間は「変わらない」ということと「変わる」ということが両方矛盾なくあるというのが実態かもしれない。臨床ではそう思って見ていくとお互いにとって一番負担がないし、長期にわたって同じ人に粘り強く取り組める心構えにもなる。具体的な方法としては「待つ」という技術になる。治療の方法論で「何かする」ということは沢山あっても、ただ「一緒にいる」ということはなかなかやれない。実際のところ「何もしない」ということが、生命の成長要求を一番シンプルに発現させる方法という気もする。天心で行う愉気というのがその象徴かも知れない。

治療者が相手の「自我」というのを掴んでいるうちは、そこに執らわれてどうにもならないということがやっぱり出てくる。だからその「どうにかしよう」ということがなくなれば、元来自然の相というのは次々を変わっていくものだから、その力をそのまま使えるようになるのではなかろうか。そう言えばこの辺りのことは河合さんの『心理療法序説』という本の中に、「自然モデル」という表現で著されていた。また復習してみようかな。いつもながら書いていると、どこからともなく答えが出てくるから不思議だ。誰だか知らないけど、「無意識」はありがたい。