『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観た余韻そのままに、本棚から何気なく井深大の著書『心の教育』を手に取った。本書は1985年に出版された『あと半分の教育』に一部改訂を加えて復刊されたものである。
外観的にはコンパクトにまとまっているが、第一次資料を丁寧に引きながら戦後教育が作られた背景を洗い出し、今後の展望まで示唆する一書である。
本書の冒頭では日本近代史は40年ごとに節目を迎えている、という一つの歴史観を紹介している。
その起こりを1865年とし、同年は日本が諸外国からの圧力と国内から起こってきた改革派による革命運動の混乱から元号を慶応に改めた年であった。結果的にはこれが江戸時代の終焉を飾る最後の元号となる。
40年後の1905年は日露戦争の終結を迎えた年で、さらに下って1945年は敗戦の年にあたる。そして戦後40年は日本国中で大変な努力をして高度経済成長期を生み出し、近代化以降はじめて物質的な豊かさを確立した期間である。その節目を1985年に置いている。
さてここからさらに40年経つと2025年、いよいよ21世紀に突入し出版当時の年代からはイメージすることもむずかしい域になる。
しかし著者は教育という視座から今(1985年に)大転換を行わねば、40年後の日本は決して明るいものにはならないと警鐘を鳴らす。
当時から学歴至上主義の弊害、いじめ、非行といった問題が社会を悩ませてはいたものの、これらについてはすべて「対症療法」が行われただけで、近代化以降、とりわけ戦後教育の抱える根本的な問題点については不問のままであったことを同氏は厳しく指摘(糾弾)する。
行政の失策、怠慢に対して厳しい指摘を重ねた末にたどり着いた解答は、もはや教育を「専門家」に任せておくわけにはいかない、というものであった。
ここでいう専門家とは強いて限定すると義務教育を担う小・中学校ということになるだろうか。では専門家に任せず如何にすべきか、という問いに対し著者は家庭での躾・教育を再興することだと力説する。
躾・教育は家庭でするもの、といえば何の変哲もない一般論に聞こえるが、この国の戦後においてそれは非常に大きな意味を持つ。
誰もが知っているように、戦後焦土と化した国家を再建すべく、物資の確保とこれを支える人材育成に奔走した。しかし人材といってもそれは効率よく「物」を生み出すための人海戦術の一員であり、無個性で代替可能な「労働力」の増産が主要テーマだったのである。
還元すればGDPを高めることに夢中に過ぎて、情緒や感性、倫理観といった人格を育てることをどこかに置き忘れてしまった、ということである。著者が唱える「あと半分の教育」とはこれである。
しかし今から振り返るといろいろな欠陥に満ちた「間違った戦後教育」で括られてしまいがちだが、当時は日本国全体を覆う飢餓の問題から脱する急務があったために当時は当時の最善を尽くした結果と見ることもできよう。
ともかく井深氏は前掲書に遡って1969年には幼児開発協会を設立し、以後『幼稚園では遅すぎる』 『0歳からの母親作戦』など幼児教育、そして胎教の意義、重要さを主張する著作を段階的に出版している。
さて、それでは心の教育とはどうあったらいいのか、というと本文中に「これからの教育に必要なのは、家庭教育の見直し」と題して、著者が試論的にまとめた具体案が記載されている。
多少の主観が交ざるがその要点を纏めるとおよそ次のようになる。
0歳児からの教育を意識し、その際に愛情と信頼に基盤を置いたしつけを行うこと。
胎教の研究を促進し、その成果をもって親の教育に反映すること。
母親の職場進出の増加にあいまって、幼稚園と保育園の役割が重要になる。よって両者の役割の明確化や整合性を図る必要性がある。
読めば確かにその通りだが、出版から40年後にあたる2025年を2年後に控えた現在、これらのことはまったく手つかずのままである。そして不登校や引きこもり、いじめ、自殺と言った児童を取り巻く問題は増え続けているのだから、井深氏の懸念は的中するも、解決案は空念仏に終っていることになる。
ともかく同氏が高度経済成長期のまっただ中に戦後教育の欠陥に気づき、その解決策として0歳からの教育を掲げた直観力と先見性には驚くばかりである。しかもここでいう「ゼロ歳」というのは数え年の感覚を残している。つまり数えでは生まれたら一歳なのだから、ゼロ歳児とは胎児のことで胎教に重きを置く考えである。
こうした考えは野口整体のそれとおおむね軌を一にするけれども、実は井深氏は整体協会で行われていた野口先生の講義にも出席されていたそうである。人間を観る、ということに関しては一企業人と整体指導者とで相通じるものがあったのかも知れない。
胎児からの育児、を考えるなら当然のことながら母親を無視するわけにはゆかない。整体では母胎内からもうすでに育ちつつある我が子を意識した生活を勧める訳だが、そこには母親になるための教育も必要になる。
これこそが育児のための本当の教養「あと半分の教育」なのだが、それは頭でする勉強ではなく意識を鎮めて身体の感覚を優先させるという身体性の世界である。
これにより母親と胎児との見えない心のつながりを意識して、産後もこの「つながり」をできるだけ保つように心掛ける。そのためには母親はもちろん、父親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんながこれを支えるべく深い理解と惜しみない協力が必要である。
しかしながら現実は核家族や共働きの増加に伴って、上のような在り方は徐々にむずかしくなっているのだから悩ましい。むしろ子どもはなるべく手がかからないで済むように、できるだけ早く自立させ、「しっかり」するように文字や計算といった知育の時期が繰り上げられている傾向すらある。
現実はけっしてかんばしい方向にはない訳だが、だからこそ先に紹介した解決案の内の「胎教の研究を促進し、その成果をもって親の教育に反映すること」は是非にも推進したい内容である。
胎教に関する研究結果は探せばいくらでも入手することができるので、有志の方は是非にもそうした情報を活用して実践していただきたいと願う。母国、という言葉があるけれども、文字通り母は国をも創造する。
次なる40年を明るく拓かれたものにするために必要なのはこれから生まれ育つ新しい力であり、その誕生を支える母親の心と体ではないだろうか。