個人の健康

「集団免疫」という言葉を最近よく耳にするようになった。

わかっているようで曖昧な語句なので調べてみたところ、どうもこれは「社会」とか「国民」みたいな言葉と同じで、概念だけがあって実体はないようである。

社会学者や経済学者が便宜で用いる観念語で、医学的には定義がシッカリとは確立していないのかもしれない。

おおよその意味としたら、特定の病気に対する抵抗力を具えた人の割合が一定に達っした状態を指しているようだ。

この集団免疫なるものが具わる過程では、個体生命はそれぞれの運命をたどる。大別すれば、細菌もしくはウィルスに感染しても発症しない人、感染したのち病症経過に耐えて免疫を獲得する人、耐えきれずに絶命する人、とおよそこの三通りである。

こういう自然の「はたらき」のことを日本語では「淘汰」という。地球上の生き物は誰もこの自然淘汰の摂理から逃れることはできない。だから極論を言えば、個人も全体も遅かれ早かれその方向に流れていくもので、ことさら集団に向けて免疫を付けようと頭を熱くする必要はない。

コロナに関して個人的に気になるのは「どういう身体の人が罹っているのか」という、これにつきる。また重症化するのはどういう身体なのか。

同じ型のウィルスが接触、侵入しても、A氏とB氏の体内では全く異なった動きをする。このときA氏のことはA氏からしか学べないし、B氏についてもまた同様である。

こういうことは現代科学の視野からはもれているから、一生懸命研究しても「ウィルスに対する薬」という枠組みの中に収まる。これはこれでもちろん「社会」の役に立っている。

ただこの線で行くとどうしても新種の病気を前にしては薬がないので対応できない。研究がある程度進んで「標準医療」が制定されるまでは現場はただ見ているより他ない。

ただし病気の実態がわからなくても、個人としてできることがある。それは自分の身体の弾力を保つように心掛け生活をすることである。

筋肉は裏切らないという標語は浮薄な世相を象徴する空念仏のようなもので、本当に裏切らないのは「弾力」なのである。

どんな生き物でも生まれたての赤ん坊がもっとも柔らかく、老衰するとほうぼうが固くなっていく。身体に問題や悩みを持つ人は必ずどこかに偏った固さがある。

死は全身の麻痺であり物化なのだから、弾力を失うことはそれだけ死に近づいたことを意味するのだ。これはどんな場合でも良いことではない。

ところが病気にかかった時にこれを徹底的に使いこなして経過すると、身体に偏在する部分的麻痺状態が快癒する。野口晴哉が『風邪の効用』で訴えた核心はこれである。

つまりは病気そのものがこわばった身体に弾力を取り戻す回復作用になっている。だから肺炎が流行るには肺炎を必要とする身体が先に流行っている、という見方もここに生じてくる。

社会や集団について漠然と思いをめぐらすよりも、個人の身体を丁寧に観察していくことの方が結果的に社会を健やかに導くはずだ。一見遠回りにみえるこの道は健康生活の基礎として案外着実でないだろうか。

コロナ禍をきっかけに個人の健康、個人の身体を丁寧に見るようになったら禍も転じて福となるだろうが、現状を見る限りそういう気配はまだない。

時期が早いだけなのか、どうなのか。わからないけれども自分は整体法と活元運動の種を撒く。

臨済は法を伝えるたえに松を栽え、ルターは人間の未来を信じてリンゴの木を植えた。それらは巨木とは言えないまでも、何世紀もの風雪に耐えて深く強く根を張っている。物の興廃はまったく人に由る。

いつの世も嘘は好まれ、真実はなぜか歓迎されない。嘘で物質的な飢えは満たせても、精神的な飢えを満たせるのは真実だけである。知った以上は世に問い続ける責任があると思っている。