新年最初のネタを考えながら窓の外を眺めたら、今日は春一番を思わせる強風に、突き抜けるような快晴だった。
ふいに「青天白日」という『碧巌録』第四則の冒頭が頭に浮かんだ。
『碧巌録』は禅の愛好者なら誰もが知る宋代中国禅の指南書である。青天白日とは雲一つない青空のような禅の世界を表す一語だ。
人間の感覚を取り除けば、元々この世界には西もなければ東もない。加えて天地もなければ、過去も未来もない。どこにもとどまらない掴まえようのない世界である。
人間の世界からゴタゴタが尽きることはないけれども、その「人間の世界」とは何かを丁寧に突き詰めていくと、それは取りも直さず「自分の世界」である事がわかる。
世相がゴタゴタしているのではなく、そこに思いを巡らせている自分の頭の中が妄想しているだけなのだ。
妄やめば、寂生ず。自分自身のいろいろな想念に捉われなければ、誰もがそのままで、静かな世界に住めるのだ。自分の本当の世界は最初から何もない、澄み切った空の如しである。
達磨の廓然無聖(かくねんむしょう)も、このいのちの真相を武帝に示すために仕方なく吐いた言葉だ。
はたして武帝は達磨を見誤ったが、我々はこの事がわかれば相手にするのはいつも自分一人でいい。そしてその自分の母体である身体を整えることは何よりも尊い行為である。整った体は鏡の如くこの世界の真実をそのまま映す。
だからといって整えるために何かをする必要もない。むしろ「何かしなければ」という焦りはかえって自然の息を乱す。
「何もしなくても健康だ」ということが自覚されるためには人間の場合周到な訓練がいるが、整体法はそうした訓練法の集積であり総称だと考えたらよいと思う。
その基本となるのが活元運動なのだから、これを自ら実践して人の興味を刺激し伝播させることが整体指導者の役目だろう。
こうやって縷々考えていくと、年が変わっても結局自分の願いは変わらない。従来からずっと今を生きているのだから、以前の念から続く現在のこころはいくらでも進歩するし、また進歩などしない。
親の生まれぬ前から、相変わらず自分はずっと自分のままだ。
どうも「相変わらず」ということはすべての人間の出発地点であり、終着地点であるようだ。窓の外は変わらず日が差している。自分はやはりここにいる。