夢分析ー表出化する無意識の動き

妻が面白い夢を見た。

自宅の前の住宅がなくなってサラ地になっている。そこへ私と妻が見に行くと黒い岩のような塊が二つ、地面から顔を出していた。邪魔なので掘り返そうかと思ったが、想定したよりも土中の体積が大きいようである。私がその場ですぐに掘り返すのはあきらめ「これはほうっておいて、またいずれやろう」といって引き返し、妻もそれに従がう。

内容は以上である。妻の夢はいつも抽象性と複雑性に富んでいるのだが、これは比較的解釈をつけやすいのではないだろうか。

というのも最近は私がもっぱら無意識とか個性化の話ばかりをしていたことが遠因と思われる。つまりこの黒い二つの岩というのは顕在意識に表出し始めた私たちの二人の無意識のようである。

しかし無意識が意識の領域に登ってきたからといって、「意識的」にそのすべてを顕在意識の俎上に上げられるかといったら、それは不可能である。

無意識と顕在意識の交流が活発になるということは、取りも直さず心理的な「治癒」を意味している。

しかし無意識というのは劇薬なのだ。無意識の力に急激に飲み込まれると、治癒どころか社会生活そのものが一時的におぼつかなくなる。

だから夢の中の「私」は土中の岩を掘り起こさずに、「自然に任せる」ことにしたのだと思われる。

この夢のように無意識像が黒い大きな岩のような塊として現れる例を、過去にクライエントから何度か聞かされたことがある。

また今回の例のように、その大岩は夢の中でも「これ」といった仕事や役割を果たすわけではないし、さして邪魔にもならないということがほとんどである。

一方で夢を見ている当人に理由のない安堵感をもたらしたり、何か「意味ありげ」な中心的存在として登場することが共通している。

こういう夢を見た(覚えている)からどうなのかと問われると答えに窮するが、自身の心の成長プロセス(個性化の過程)を客観的に査定する結果にはなりそうである。

何にせよ意識的には活性化する無意識の動きを邪魔しないで、むしろ保護するような立ち位置で「見ている」他はないのが常である。

経験上、中年期というのは顕在意識と無意識の力がちょうど均衡した後、入れ替わるときだと思っている。この時期に体から余分な力みを抜けば抜くほど、心のエネルギーの流れはスムーズになるから、より体を整えることが要となるのだ。

野口整体流にいえば「ポカンとする」という一言につきるが、日に一度は全身をゆるめて意識の統制力を弱めてやることが、自分なりの人生を豊かに創造していくための要訣である。

このときに土中から顔を出した無意識が示唆的にはたらく。もちろん何か目に見える「はたらき」をするわけではないが、生命の進むべき方向を暗に示して、気がつけば自分の歩んだ後ろにいかにも自分らしい道が出来ているものである。

そこで夢の中の「私」のように「そのうちなんとかなるだろう」と成り行き任せでいられるかが鍵だ。禅の方では「任運自在」という言葉があるが、運を味方につけるために努力は無用なのである。

もちろん努力そのものはしても構わないが、努力「だけ」で人生が構築されていると思っているとしたらそれは視野狭窄である。

大抵は意識できる思考の部分だけを指して、「これが自分だ」と思っているが本当は顕在化していない広大で漠とした心の領域に主体はある。

おそらく昔の人はこういう「サムシング・グレート」のような存在に手を着けることは「祟り・障り」の元であると考えて、「それ」から一定の距離を保って畏れ敬う態度を心得ていたものと思われる。

実際は「そのようなことはすっかり忘れて」目の前のことに努めるのが賢明である。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことで、「精神的なこと」に取り組もうとしてそちらに偏るとかえって精神性は堕ちる。

具体的に言えば、神社に行って合格祈願や商売繁盛を祈願する暇があったら、その時間を受験勉強や仕事に精進した方がずっと効果的に運を引き寄せられるのである。

話が飛躍したが、元来何もしなくても無意識はその生活に反映されていくものである。我々にできることは、「それ」が見えやすいように時折り意識の波を鎮めて心の中にサラ地を作り出すことぐらいだろうか。

私の中にいる私ならざる〈わたし〉が一体どのように生きようとしているのか、これを〈わたし自身〉に頭を垂れて問いつづける態度のことを私は「敬虔」、と呼んでいる。

そういう意味からも、夢は私が〈わたし〉へと通じる、貴重な連絡経路なのである。夢を軽視することなく、その訴えのもとに照準を絞って傾聴してみると意外な声を拾い出して、その内容にしばしば驚かされる。

人生最大のミステリーは〈自分〉なのである。決して全てを見せない土の下に一体全体何があるのか、それを見究めるために今日のいのちがあるのだ。

そのためには、ただ一つ一つ行動していくだけでいい。見えないものが一つ一つ現象化していくその全てにドラマがあり、一寸先は闇もまた楽しみである。

夢は時折りその先の光を垣間見せてくれる、案内人のような役割を果たすものなのだ。