窮すれば変ず

「窮すれば通ず」という有名な慣用句の原型が「窮すれば即ち変じず、変ずれは即ち通ず」であることを最近知った。もうちょっとやさしくすると、「困りきったら変わる、変わればなんとかなる」ということだ。

いずれも事態は困り果てた時に思わぬ好転があるという意味に変わりはない。因みに英語の場合は次のように言うらしい。

When things are at the worst they will mend.(物事は最悪の事態に陥ると好転するものだ)

この「変ず」といい「mend」という、その変とか改という動きが閉塞した事態を切り開くための鍵となる。

人が苦境に陥った時によく「成長する」、「乗り越える」という言葉を聞くが、これらの表現はすでに一つの方向に動きが固定されている感覚を覚える。つまりマイナスからゼロへ、ゼロからプラスへといった印象で、これはいわゆる価値観の「居つき」を意味している気がしてならない。

もし居ついたままの価値観でも何とかなるとしたら、その人はまださほど窮した状況にはいないのかもしれない。それならそれで構わないし。

結局のところ「治療」という行為を煎じ詰めると、生体の「変化」を助ける行為ではないかと思うのだ。

その個体が変化しやすい環境を整え、それを守る。

感じとしては、ライ麦畑から落っこちそうになる子供をそっと救い上げて見守るように。そうやって保護し続けることが生命の自由性を最大限に発揮させ、そして変じ、通じることを可能にするのではないだろうか。

だから治療の場ではまず徹底的に安全な環境を作る。そしてその防護壁の範囲内で適量のストレスをかけ、疑似的に「窮する」ように働きかける。その窮する感覚を治療者は共有し、一緒になって変化していく。

非常に抽象的だけれども、これは対話型カウンセリングのような治療モデルをずっと単純化した図式だ。そしてこれは整体指導にも通じる理論であると思う。

理屈はシンプルにまとまったが、これを千変万化する個人の状況に合わせて行えるかどうかは治療者の経験と感性に依拠する。理屈がわからないでやっているよりはずっといいだろうけど、理論と実際は常に一致しない。その一致しないズレの中で誰よりも先駆けて窮し、変ずるのが治療者の役目ではないだろうか。