カウンセリングは植物を育てるように

カウンセリングは植物を育てるのに似ている。この話は河合先生の『カウンセリングを考える(上)』に出てきます。

本の中で不登校の子供を例にとって説明をされますが、世の中にはどうしても学校に行けない子供というのが一定の割合でおられます。本人は「学校へ行きたい」とか「学校には行かなければいけない」と思っているのに、朝になるとお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりする子がいるわけです。あるいは、どうしても目の覚めないという子もいるようです。そういうことが次のように書かれています。

これは不思議ですが、どうしても目のさめない子がいます。金だらいの上に、目ざまし時計をのせますね。それを二つやっておいても、目がさめない子がおります。そして学校へ行く時間が半時間ほど過ぎたら、パッと目がさめるんです。これはほんとうにすばらしいものですが、そういうふうな子供に、われわれは学校へ行くというように教えることには意味がありません。

…こういうふうに、われわれは簡単に「教える」とか「しつける」ということは断念しなければならない。そうすると、われわれは何ができるかというと、普通の子供たちはみんな学校に行っているのに、この子はここで学校に行けないのは、育ってくるときにどっかで育ち方がひずんでいるんじゃないか。あるいは育ちそこなっているところがあるんじゃないか。そうすると、その育ってないところをちゃんと育てるように、われわれは育て直すということをしなくちゃならないというふうに私は思うんです。(pp.11-13)

と、ここから話はずっと展開して行きます。

野口整体の場合は始めからそういう「育てる」という態度をはっきりと表明して整体指導の実体を「体育」と、こう現しています。治療といえばもちろんそういう表現も合わなくはないけれども、やっぱり「治す」とか「教える」といった言葉にはどこか強制力というか不自由な感じがしないでもない。もうすでに出来上がってしまった、結果のものをいじくるというか、どこか不自然な感じが私などはするわけです。

ところが「育てる」とか「育て直す」というと、それは生きものが伸びていこうとする自然の力を主体とするよりほかなくなります。そういう態度がカウンセリングをするうえではとても重要なのではないかと、こういう理解でいいと思います。

野口先生は「現代の教育には育がない。教えてばかりだから教教である」と言われたそうですが、「教える」ということでも「治す」ということでも、相手の中にある力とか、刺戟に反応するまでの時間を無視して行なおうとすると、どうしても受ける方は負担が強くなってきます。なんだかわらないけれど、見てもらっていると疲れるというか何か大変な感じがしてくるわけです。

植物に肥料をやっても水を撒いても、それを自分のものにする力というのはやはりその植物の中にしかない。「育てる」というのはその中の力と外の力が二つ合わさって、一体になって動いていく様を上手に現している言葉だと思います。

それと同じように身体を刺戟した場合でも、心に何か言って聞かせた場合でも、そこから相手がどう動いてくるのかをじっと観察して待っていなければならない。そういう「間」という時期が必ずあるわけです。

そうして教育とか治療ということをずっと突き詰めて考えていくと、一つのそういう着地点といいますか、最後に行き着く場が非常によく似ているような気がします。つまり「育ってないところをちゃんと育てるように、育て直す」という方法。植物の場合は育て直しというのは難しいけれども、人間の場合はこれが出来るわけです。逆に言えばこうやってじっくり自我に取り組んでいかないと、いろいろな症状でも心の問題でもどうしても繰り返してしまう。

人間の場合はこうやって丁寧に取り組んでいくことではじめて成し遂げられる仕事があるとも言えます。根本治療というのは誰もが望んでいますが、その実態というとほとんど理解されないのが現状かもしれない。それはまさしく植物を育てるような、非常にひっそりとした愛情を要する仕事という気が私にはします。